心を開く、何に開く?(2)

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先日、ブログに、

心を開くとは?

たしか、ずっと昔、心を開くということが、

「ダメな自分」、「最低最悪の自分」、「惨めで哀れな自分」を曝け出すこと。

「自分」の「罪」や「恥」を、「聖人君子たち」に、涙ながらに、告白し、許しを乞うこと。

「霊的および人間的に進歩した聖人君子たち」から「よろしい。そんなあなたでも、受け入れてあげましょう。わたしは心が広いのでね」と言っていただき、「霊的および人間的に劣っていて低レベルのわたし」は、ありがたや〜となること。

あるいは「自我の意見」を「自分の意見」と勘違いしたまま、自我を曝け出して、みんなから「すごいね〜!」と言われること。

パートナーに「最低最悪のわたし」でも愛してくれるわよね?という圧をかけつつ、だだをこねたり、感情をぶつけたり、試し行為をしまくること。

のように、思っていたかもしれない、勘違いしていたかもしれない、そして勘違いしていたことすら気づいていなかったかもしれないことを、今、ふと思い出して、

ということを書きました。

それで、今振り返ると「この勘違いのイメージ」を突き破った先には、いつも、奇跡の体験、深い癒しが、待っていました。

 

 

「こういった数々の勘違いのイメージ」が浮かぶことで、わたしは嫌だ、となって、殻に閉じこもり、その殻の中で、

「ダメなセルフイメージ、最低最悪のセルフイメージ、惨めで哀れなセルフイメージ」

「罪深く、霊的および人間的にレベルの低いというセルフイメージ」

「罪や恥」

「自分の意見や発言や表現は人を不快にさせるし、人を困惑させるし、争いや対立を招くもの」

このようなセルフイメージや決めつけを、作り続け、膨らませ続けたのです。

まるでパン工場で、せっせとパンを作り続けるジャムおじさんのように。

 

 

それで、その「おそろしい、罪や恥や最低最悪のセルフイメージ」という「パン」で工場がいっぱいいっぱいになったとき、

わたしはもう、何も考えられなくなり、なりふり構っていられなくなり、

誰かに会いに行っていました。

いつも会ってる人ということもあれば、普段は絶対に会ったことのないような人のこともあれば、以前から会ってみたいと思っていた人のこともありました。

 

 

そのようにして、人に会いに行くとき、わたしは「いつもの、真面目にしなければならない、と、緊張して警戒して恐れている自分の意識」とは違う「別の声」に指示を受け、まるで操られるような、感覚でした。

その「別の声」が「この人に会いに行くといい」と言ったり、「ここへ行く」といって旅の手配を手際よくすませたり(普段は時間がかかるのに別の声はなんでも手際がいい)、

そうして誰かに会いに行ったときも「席を譲ってほしい、わたしに任せてほしい、あなたは何も考えなくていい」という感じで、「普段の真面目にしなければならない云々の自分」は脇に退く感じで。

それで、今振り返ればなのですが、

ある意味、

「ダメな自分」、「最低最悪の自分」、「惨めで哀れな自分」や、「自分」の「罪」や「恥」を話す、聞いてもらう

「自我の意見」なのか「自分の意見」なのか「わがまま」なのかわからないけどとにかく心の奥から溢れ出てくる思いを、そのまま伝えてみる

制御不可能な感情をもうそのままにする

↑これを、すべて、「行った」のです。

でも、自分がやけくそになって行ったとかじゃなくて、聖なる存在の采配のもとで「行われた」みたいな感じなのです。

 

 

「行って」みて、はじめてわかったのは、

「最低最悪の自分、ダメな自分、哀れで惨めで恥ずかしい自分」も「罪深い自分」も「人を不快にさせ、一言何か発すれば、対立を引き起こす自分」も、

そして、その「自分」を「存在させるため」に必要な「霊的および人間的にレベルが高く成熟した上から目線の聖人君子」も「重箱の隅を突きまくる厳しく正しく神経質に裁く人」も「傷つきやすい人々」も、

自分が、引き寄せよう、作り出そう、演じさせよう、としていただけで、どこにもいなかった、ということがわかったのです。

 

 

「ダメな自分」、「最低最悪の自分」、「惨めで哀れな自分」を曝け出すこと。

「自分」の「罪」や「恥」を、「聖人君子たち」に、涙ながらに、告白し、許しを乞うこと。

「霊的および人間的に進歩した聖人君子たち」から「よろしい。そんなあなたでも、受け入れてあげましょう。わたしは心が広いのでね」と言っていただき、「霊的および人間的に劣っていて低レベルのわたし」は、ありがたや〜となること。

あるいは「自我の意見」を「自分の意見」と勘違いしたまま、自我を曝け出して、みんなから「すごいね〜!」と言われること。

パートナーに「最低最悪のわたし」でも愛してくれるわよね?という圧をかけつつ、だだをこねたり、感情をぶつけたり、試し行為をしまくること。

↑これはすべて、エゴによる愛の解釈、愛への抵抗で、

エゴには愛は理解できない。ただ恐ろしく嫌なもの、なんとかしなければならないものに見える。

愛にはエゴが理解できない。ただ愛だけが見える。

 

 

だから、エゴがこわいと思ったもの、嫌なものほど、よくわからないままでもやってみると、価値判断や決めつけやエゴの間違ったセルフイメージやおそれのイメージが、どんどん、取り消される。

これは「やめるのがこわい、嫌だ」とか「しないのがこわい、嫌だ」というような場合は、やめるとか、しない、ということで、初めて体験できることもあると思います。

そして、ここでよくいただく質問は、エゴなのか直感なのかわからない、というもの。

これはもう練習するしかなくて、日々練習実践を継続するしかなくて。

だから、普段から、心と向き合って、祈り続けて、法則性を思い出し続けていきたいのですよね。

「人生の緊急事態宣言」みたいなときに、エゴの声か導きの声なのか、判別がつくようになるために、普段のなんともないときから、日々練習を継続する。

「いや、わたしは、飽き性だし、継続力ないし、それがわたしだからいいんです。困ったときは、専門家の人にアドバイスもらえばいいだけだし」と思いますか?

その「声」が連れて行く先が、ジプシーへの道だったり、エゴの時間稼ぎへの道だったり、しない、と、言い切れるでしょうか。

反対に、普段から、心と向き合ったり、祈ったり、法則性を思い出したりし続けていると、そもそも「緊急事態」みたいなのがなくなります。

でも、毎日、奇跡を体験するようになるし、「別の声の方の導き」は「え、さすがにそれはないでしょ」みたいなことを言ってくることも普通にあります。

なので、ある意味、スリル満点です。笑

わたしは自分のことを「刺激を求める型」だと思っているのですが、ガイダンスに従うこと以上のスリル、ワクワクはないです。

 

 

勘違いのセルフイメージは、突き破るまで、それが勘違いだったことは理解できません、わかりません。

突き破る、つまり、行動する。

向き合って、対話して、尋ねて、聞いたら、行動する。

じゃないと、決めつけが決めつけだったと、理解ができません。

エゴの領域から、真の自己の領域、法則性は、どう逆立ちしても、理解ができません。

だから、感覚を受け取ったら行動してみるしかない。

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