※旧ブログからのお引越し記事です。心からの感謝を込めて。
「わたし」は、この苦しみが、いつどこではじまったのか、どんなに考えてもずっとわかりませんでした。
「わかった!」と思うことがあっても、また、苦しんで、ということを、長い間繰り返してきた気がします。
もしかしたら、原因なんて、ないかもしれない、と、感じることもありました。
いつからだったのか、「自己否定」という名のメロディーが、繰り返し繰り返し、自分でも気づかないうちに、再生され続けているようでした。
「わたし」は「わたし」のことを、一生懸命、何度も何度も、長い間、否定してきたかもしれません。
否定していることに気づかなくなるほど、ずっとそうしてきたようです。
それには、さまざまな形があったのかもしれません。
あるときは、こんな自分は価値がない、ダメな人間だ、という形での自己否定。
あるときは、わたしは愛される価値がない、幸せになる価値がない、という形での自己否定。
あるときは、ちゃんとしていないとダメだ、人様に迷惑をかけてはならない、という強い禁止としての自己否定。
あるときは、一生懸命がんばったら認められる、という形の自己否定。
さまざまな形で、自己否定、自分への厳しいジャッジメントを、なぜか、長い間、ずっと信じ込んでいたようです。
自己否定やジャッジメントを信じ込んで、エゴにコントロールされてきたので、だから、
「わたしは豊かな愛そのものである」という、ほんとうのことを、どうしても信じられなかったのかもしれません。
あまりにも長い間「わたしのような人間は、苦しまないと、幸せになれない。そして、苦しんでも、幸せになれないかもしれない」という恐怖という名の幻想を、実態のあるものだと信じ込んできたので、
「わたしはいつも溢れるほどの愛と幸せを体験できる」ということに、目を向ける暇さえなかったのかもしれません。
*******
「わたし」は、自分が自分に、たくさんの否定を与えてきたので、
「わたし」は、他の誰かにも、たくさんの否定を与えたり、
「わたし」は、他の誰かから、たくさんの否定を与えられたり、
という、流れのなかにある、という気がしてなりませんでした。
わたしが、わたしのことを、責めているから、
わたしは、他の誰かのことも、責めたり、
他の誰かが、わたしのことを、責めたり、
ということが起きている、という気がしてなりませんでした。
わたしが、わたしのことを、ジャッジメントで厳しく禁止しているから、
他の誰かのことも、ジャッジメントで厳しく禁止せざるを得ない状況が起きたり、
他の誰かが、わたしのことを、ジャッジメントで厳しく禁止してきたり、
ということをつくりだしていたようなのです。
そういうことを、少しずつ、気づいていく中で、だんだんと、そんな自分を安心感とともに見つめられるようになってきて、安心感とともに、そんな自分の様子をただ、見つめているだけで、
いつのまにか、幻想に仕え、自己否定やジャッジメントしていた自分さえ愛おしい存在であることを思い出していました。
どんな自分も、愛おしい、愛でしかない存在。エゴの信者でも、恐怖の信者でも、なにをしても、しなくても、愛おしい、愛でしかない存在。
そんなような感覚が、胸の辺りに、平和のような、安心感のような、やさしい感覚として、感じられるなかで、
ああ、お母さんも、小さい頃から、こんなふうに苦しんできたのかもしれない。
お父さんも、小さい頃から、こんなふうに苦しんできたのかもしれない。
わたしのように、たくさん悩んで、苦しんで、葛藤してきたのかもしれない。
そうしてまた、お母さんもお父さんも、自己否定を知らず知らずのうちに、してきたのかもしれない。
わからない。わからないけど、
わたしが、大好きな人を前に、自分がいかに傷ついたかを訴えたとき、大好きな人は、そんなわたしをみて、こんなに愛してるのにと、傷ついていたのかもしれない。
わからないけど。
わたしの話を聞いてくれない、わたしの話を聞いてよ、と、わたしが、あの大好きな人に、必死で訴えていたとき、わたしは自分が傷ついたことでいっぱいいっぱいで、それを、大好きなあの人に、癒してもらおうと必死で、でも、あの人は、そんなわたしを前にして、自分の気持ちを抑え込んで、自分が傷ついたことなんて口にもせず、わたしを理解しようと、実は必死だったのかもしれない。話を聞いてなかったのは、わたしのほうだったのかもしれない。
わからない、そして、そんなふうに一つひとつ思い出しながら、わたしは、今までずっと、たくさんの人から、たくさんの場面で、その人なりの、そのときできる精一杯の形で、愛情を注がれてきたことを思い出していきました。
わたし自身も、大好きな人に、わたしなりの、そのときできる精一杯の形で、愛情を表現しようとしてきて、そんな自分が、ただ、ただ、今は、愛おしいような、そんな感じがします。
たった、これだけのことで、なぜか、目の前には、とても豊かな愛に満ちたものが現れるようになりました。
その豊かさも愛も、人間関係や目に見えるものとして、「わたし」のところまで現れてくれます。
「わたし」は、ただそれを、受け取っているだけです。
具体的なことがわかっていても、わかっていなくても、ただただやさしく、わたしが望んだものか望んだ以上に素晴らしいものを、運んできてくれて、
「わたし」は、ただそれを、満たされた気持ちのなかで受け取っているだけです。
ずっと苦しんで、たくさん努力してきたけれど、ただ「そのままでいいよ」と見ていくという簡単なことだけで、ほんとうに、ただ、それだけだったんですね。
何度も何度も、「幸せを受け取る方法」を、探して、読んで、理解してきて、なにも変わらなくて、あるときは腹を立てて、もうやめようと誓ったこともあるほどだったけど、
ずっと昔から、みんなが教えてくれていたことは、ほんとうだったんですね。