すべての教えに通ずる光

昔から、目にみえないものをみるとき、祖母(父方)の言葉をよく思い出していた。

「目にみえないものをみるとき」というのは、「霊視中」とかではなくて、その自分であるとき、という感じ。(うまく言葉にできてるか不明)

おとなになってわかったのだけど。

祖母は、神道、仏教、キリスト教、道教、など、ありとあらゆるものを学んでいて、そのさまざまなもののなかから、インスピレーションでわたしに話をしていた、ということです。

祖母は、非社交的というか、人付き合いを好まないタイプの人で、誰かと電話しているときは常に聞き役だった印象だけど、わたしとわたしの母にはよく喋っていた。

もしかしたら、話が合う人がいなかったのかもしれない(=そう感じながら生きていたのかもしれない)と、最近になってそう思う。

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わたしが高校に行かなくなったか退学したかくらいのとき(記憶が曖昧)わたしはこの祖母の家に滞在していた。

とくにこのあたりの記憶は曖昧、あまりにも曖昧すぎるのだけど。

高校にも行けなくなったという状態で、祖母の家に滞在していたとき、突然、祖母が、聖書をプレゼントしてくれた。

その聖書は、和紙のような、やわらかく、すべすべしたカバーの本で、淡い色をしていた。

その本を開くと、横書きの小さな文字が、びっしりと並んでいた。

文字の色もなんとなく淡いようで、そのかたちも、すっきりと、上品そうな、美しい所作、みたいな風をしていた。

そして、祖母の家でわたしがずっといた部屋、部屋の場所、匂い、風の感じ、外を歩く人の様子と音。

・・・ということを、わたしは、はっきりくっきりと、今その場所にいるようにして覚えているのだけれど、読んでないのです(笑)

もしかしたら、一行くらい読んだかもしれませんが、「それを読んで感動したのです」みたいなオチは、残念ながらありません(笑)

でも、「いきなり聖書」という、衝撃というか、なんというか。あのときの感覚が、忘れられない。

「祖母セレクトのサプライズプレゼント」というのもめずらしくて少し驚いたし、聖書というのは、さらに「!?」という感じだった。

祖母は、不登校のわたしに、なにも聞かず、なにも諭さず、毎日なにが食べたいか、ほしいものはあるかを聞くくらいで、それ以外は祖母のしゃべりたいことをずっとわたしが聞いていた、というような、思い出です。

なんとなくだけど、今になって、やっと、あのころの、祖母のおもいが、わかったような気がするのです。

この10代の頃の出来事なんて、すっかり、「棚の奥」にしまって、「生きるのが苦しい、人生の難易度が高すぎだ」とおもい続けて、

その流れのなかで、神道、仏教、キリスト教、道教、などに自ら触れることがあり、ちゃんと深く学んでいたとは言えないけれども、すべての教えに流れる一筋の光、というものは、あるときから、はっきりと感じるようになった。

こういった、宗教・教・道などを、「争いや戦いや裁きや罰の道具に使う人もいた」ということで、そういう人は、「教えをよく理解していないだけのではないか?」と思ってしまう。

なにもちゃんと深く学んだことがないわたしは、そう思う。

「人生とはなにか?」「生きるとはなにか?」「この世界・宇宙とはなにか?」「なぜ存在するのか?」「わたしとはなにか?」「真理とは?」という、こっち系を学ぶとき、学ぶ側の「そもそも論」「自分の気持ち」を忘れてはならない。誤魔化してもいけない。

スピリチュアルでも過去世でもサイキックでも。「癒し」以外のものは、なんの意味もない。

わたしたちが受け取る「癒し」であるかどうかが重要、それだけがすべて。

自分が自分自身にすべきことの大前提も、そうなのです。癒しとして受け取れてるかどうか、感じられてるかどうか。愛、光、感謝、というのは、癒しなのです。スリル満点のドラマではない。大前提にある意識が重要です。

「魔」というのも、さりげなく、ときに優しく、ときに甘くして、ささやいてくる。

「魔」というのは惨事・破滅・破壊に連れて行こうとする「根拠のない空想」のことであり、「神」は一切関与していない。

なので、神とわたしたちの間の「通訳」を見失わないように、自分が、祈る、のです。

奇跡を創ってくださってる、愛を与えてくださってる、神に対して、安心して対話する、感謝する、みたいな感じが祈り。

小さなことから、大きなことまで。誰にも喋れないようなことでも、どんなことでも、神にだったら話せるのです。人間には聞かれたくなくても、神様になら安心して話せる。絶対に責めないし。神様は、「全肯定の極み」みたいな感じなので、絶対に責めませんし、愛以外のことは創りませんというか知りません。なので、愛以外のものは、なくなる。

祈ると、その、現実化が、早くなる。試してみると一番早いとおもいます。

感謝がないと、サインを見落とすことがあったり、タイミングがズレたり、することがあります。

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なんでもいいので、祈るようにしていると、なにもかもが、世界を巻き込んで、みんなで「心の奥からの真の幸福感」を受け取ることになる。

「魔」や「だれか数名の有能な人間」や「自分」などが作るなにかではなくて、

完璧で、愛で、全肯定で、平和でしかない、神が創った現実に「戻る」ことになる。わたしたちの内側にある、神が創った現実。

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そして、祈りは、「全員が”すべき”」ものでもない。

もちろん、自然と、同じ心を持つ人が、磁石のようにして、自然と集まって、祈るのは、ものすごいことになりますが。

「強要」する必要もない。

なぜなら、たったひとりの、ほんの一瞬の、黙祷だけでも、ものすごいこと、だからです。

まず、祈りに縁がある人が祈ればいい。

そういう人ができるだけたくさん祈っていると、それは「必ず」、広がります。

しかも、永久的な広がり方。広がる、というか、なんて言葉が、一番、ぴったりなんだろう?

そしたら、地球が、この世界が、たったひとつであるわたしたちが、全体が、いきたい方向に、スムーズにいく。全体が、自然体でここちよいと、心から、感じられる、ということ。

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