祈りにもいろいろある。いろいろな角度からの「伝え方」がある。
その一方で、祈りとは、たったひとつの答えとも、唯一の道とも、いえる。
どの教えの、どの伝え方が、「入りやすいか」というのも人それぞれなのかもしれない。
唯一の普遍の完璧・唯一の創造の源・無償無条件無限の愛を、たとえば「神」と呼んだとき。
この神は「この世に住む人間の理解を超えている」ものである。これは「平面の線が、高さを理解できないことと」みたいな感じです。
そんな神との、唯一の通路というか、道というか、それが「祈り」である。
まさに、祈り自体が、奇跡でしかない。だから「奇跡」を受け取る。ありえないことを受け取る。ありがたいことを受け取る。理解などを超えた平安です。
なので、祈りとはなんですか?ときかれたときに、わたしも、いろいろな「答え方」をしているけれども、ほんとうの答えは「白紙」なのです。
そうそう。むかし、「物理学の先生が、テストで摩擦について書きなさいという問いを出して、答えが空欄だった人に丸をつけて得点をつけた」みたいな話がありましたが(うろ覚え)、それと似たような感じというか。
一人ひとりが、ほんとうは、知っている。
でも「自我の理解での祈り」と「ほんとうの祈り」は、あまりにもかけ離れているというか。
ここ数ヶ月、ご質問をいただくことで、わたしも把握、整理整頓できてきました。
なので、実は、ringoっていうより、受講生さんが先生、っていう感覚がわたしにはあります。両方ないとただの白紙になる笑
「自我の理解での祈り」は、なんというか、一言でいうなら「分離の習慣」「わたしが感」「あの人が感」「キャラクター感」があるというか。
なので、さまざまなメソッドが、ある。さまざまな教えが、ある。
そして「ほんとうの祈り」とは、一人ひとりが「すでに知っている、もっている」ものでもあって、外側の情報や自我の判断を信仰している間は、得られない。
呪いや秘教はプロセスの一種である。
だから、だいじといえばだいじだけれども、それがすべてと思い込む必要もない。
「一人ひとりがすでに持っている白紙の領域」。
これはでも、やはり、「愛」「安寧」「平安」「平和」「自由」と呼びたいような感じ。
※(愛憎を超えた愛)
ほっこり、ほっと、する、唯一の不変が、この世ではあり得ない不変が、
わたしたち一人ひとりのハートの奥に、ありました。
ringoのお祈りレッスン
わたしがお伝えしていることは、もしかしたら「ふつうの理解」とは異なるかもしれないし、もしかしたら同じかもしれません。もし「同じ」だったら答え合わせになって、どんどん深まる、自由度が広がる(そしてそれは具現化するというのが法則)となるでしょう。