近所の看板に「変化の時代を超えていく」みたいなのがあって。
それを見ての記事。
超える、というのは、受け入れる(=手放す)が必要不可欠。
受け入れる、認める。
正直に、まっすぐに、でも”愛のまなざし”で、みる、みたいなイメージ。
愛のまなざし。あたたかいまなざし。深刻視、問題視、しない。
ただ、みる。
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言動と心が一致していれば、現実と心は一致するもので、
自分が自分と仲直りする、というのは、「自分の無意識的なもの」を、受け入れていく、ということです。
- 自分の無意識的な思考パターン
- 自分の無意識的な心
- 自分で隠しているなにか
↑これは、根本的にいえば「自我、エゴ」であり、
その奥には、罪悪感や恥などがあるので、見たくない、受け入れたくない、見つかることを恐れている、隠しておかなければならない、見つかったらどんな恐ろしいことがあるか、わかったもんじゃない、みたいな、そんな「自我による思い込み」がある。
なんだか、まるで、罪悪感も恥も恐れも、この自我による思い込みから逃れられないように、自我が仕掛けた、罠のようだ、と思う。
自我でも、エゴでも、無意識も、集合無意識も、そして、そこから生じた意識・思考・感情・感覚・エネルギー的なもの・知覚・さまざまも、
ほんとうは、何の意味もなく、ただただ、自動再生され続けている。
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この自我のしがらみ、自我の罠、自我のパターン、自我への同一化、というのが、
すべての問題、苦しみ、悩み、葛藤、わかっちゃいるけどやめられない・できない、などなどの根源。
さらに、同一化しているということは、「自作自演のドラマの登場人物に自ら率先してそうなっている状況」であるのに「自分ではまったく自覚をもてません」ということで、さらに苦しみは深くなる。
そこで、自愛や鏡を、ということでした。一番最短距離。
そして、その先は、祈り、でした。大いなる存在への愛と感謝。存在との関係性。信頼関係。
わたしの場合、ずっと、前から、この「大いなる存在について書く」「神という表記」への罪悪感も恐怖も抵抗感もパンパなかった。
そして、その苦痛に耐えられなくなり、「もう、無理です、もう、自分でやろうとしません」とお手上げしたのだけれども、それでもその幻影は追いかけつづけてきて、なんとか、最近、落ち着いてきたところ。
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知識としては知っていたけれども。
クライアントさんも、わたしも、「超える」直前には、とてつもない、恐怖が襲ってくる。
「超える準備ができている」からこそ、恐怖は、やってくる。
まっすぐ向き合っているからこそ、それは、やってくる。
恐怖。抵抗。
抵抗については、知識レベルで、知っておく必要がある。その重要性を痛感している。
抵抗は、具体的に書くと、あまりにもいろいろあるのだけれども。
いろいろありすぎて、書ききれないのだけれども。
- 病になる、症状が強くなる
- 依存的な行動が現れたり、過度になったりする
- 外側のなにかに議論・批判をふっかけずにはいられなくなる
- 自分や周囲で前進を阻止するような「出来事」が発生する
- 鬱っぽくなる、なにもやる気がでなくなる
- 回避、逃避、忘却
などなど、とにかく、自我は必死で「古い思考パターン」に引き留どめようとします。
さらに、どんな手を使ってでも、その「抵抗」を正当化しようとします。
身体症状が強くでるなどは、日常茶飯。
「家庭内で緊急事態が発生した」「事故にあった」なども、実は、あるあるなのです。
自分や外側のせいにできる「口実」を用意していることもあれば用意していないこともある。
とにかく、必死で、「自我」にとどまるように、してきます。
「自我」というのが、そもそもそういうものなのです。人類共通です。
これを、知っておくことは、「超える」上で、非常に重要です。
こういう「抵抗」についての重要度を認識しておくことが非常に重要。
そしたら、「あ、きたな」と、とりあえず、自我の誘惑に巻き込まれなくてすみます。
ここで問題視をする必要は、皆無です。
「また、問題探しの旅に出かけようとする」というのも自我の罠です。まさに、巧妙なトリック、誘惑。
抵抗への対処法は、いくつかありますが、
- 抵抗は、抵抗だと見つけて認めて受け入れたいと思う
- 抵抗に巻き込まれる・誰かを巻き込むのではなく、冷静に見るほうがいいらしいぞと知っておく
- 信頼できる人や場所に、自分の体験を話す
- 祈る、瞑想する、黙想する、黙祷する
- 「高次元の存在」にガイドを求める
などなど。
- 病になる、症状が強くなる
- 依存的な行動が現れたり、過度になったりする
- 外側のなにかに議論・批判をふっかけずにはいられなくなる
- 自分や周囲で前進を阻止するような「出来事」が発生する
- 鬱っぽくなる、なにもやる気がでなくなる
- 回避、逃避、忘却
これはもう、いい兆候でしかないのですけれども、当事者としてはそれどころではない。
ここで「それどころではないですよね!」と、「傷の舐め合い」の方向へ行く場合がある、ということも抵抗であると、受け入れた上で、
「深刻化せず、問題視せず」、「絶対大丈夫」と、なんどでも言い聞かせながら、
- 抵抗は、抵抗だと見つけて認めて受け入れたいと思う
- 抵抗に巻き込まれる・誰かを巻き込むのではなく、冷静に見るほうがいいらしいぞと知っておく
- 信頼できる人や場所に、自分の体験を話す
- 祈る、瞑想する、黙想する、黙祷する
- 「高次元の存在」にガイダンスを求める
などを、する。
1〜5以外にも、いろいろあると思います。
思考でも、身体でも、感情でも、エネルギー的なものでも、外的状況でも、どれも、抵抗はつらいもので、
でも、ほとんどの方は、目新しい何かを探し求めなくても、
すでに「そのすべ」を知っているというか。持っているというか。
そういうことが多いな、という印象です。
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あとは、「関係嗜癖」「共依存」について。
「自分が当事者ではないとしたとしても、この知識を知っておくことは重要である」
と、というインスピレーションをずっとずっと、なんどもなんども、受け取っています。
こういう依存や嗜癖などについての、問題視・深刻視・他人事視こそが、マーラの手口。
これの時代が終わりつつあるよ。
「老害」というのは、過去の栄光を手放せないということで、自分の闇を外に出すのがおそろしいですことで、これも、他人事だとはまったく思えないし、「ちょっとくらいならいいでしょ」という声あるなら「それも、内側としてみたい、受け取りたい」という思いがあるだけでも大違い。