すっごい基本のき、みたいな話ですが。
願いはすでに叶ってますし、引き寄せの法則はすでに働いています。
その結果は、日々現れつづけている。現れた時点で、もう終わっている。
でも、こういった書き方をすると、誤解する場合もあるようなので、ほかの書き方をすると。
なんというか、わたしたちは、見たいように見ている、みたいな感じなのです。
自分が自分をどう見ているかで、人を見ています。誰かを見ています。何かを見ています。自分のなかにあるものでしか、外側を見ることはできません。
誰かや何かに言いたいことは、すべて、自分が自分に言い聞かせていること、みたいなノリなのですよ。
(内観する場合)「言ってしまったこと」でもいいですが、「言いたいこと」を見るとやりやすいことが多いです。
「頭の中」「心の中」での、誰かやなにかへの、批判・否定・不平不満も、例外ではないどころか、これのほうが「想念」みたいな感じになります。
具現化する場合もあれば、「なんかただ気が重い」となるなる場合もあるでしょう。
我慢してりゃいいって話じゃないのです。
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祈りもそうです。
祈りは、誰かや何かを思い通りにする、話ではないです。
祈りは、すでにある、光を、愛を、輝きを、豊かさをいただけることへの感謝、与えていただいていることへの感謝、ですので、
心からそう思えない場合は「その自分の見方・あり方」みたいなものを、
神に、神とつながる内なる存在に、捧げる感じ。
自分の声に耳を傾けたり、自我に気づいたところで、
手放せないこと、できなくて苦しいこと、なぜかわからないけれどもどうしたらいいかわからないこと、など、ありますが、これが、悪いとかいいとかじゃなくて、これは「自我」なので。
わたしだって、ありますよ、自分ではできないので、捧げているのですよ笑
わたしがもし「できる人間(颯爽)」とかだったら、こんな生活、今、してません笑
「自我」というのは、この世界誕生以前に発生したもので、人類のものというか。そして、それを自ら信仰してました、ということで。
そう理解するのがゆるし、みたいな感じ。
「その先」は、どちらかというと、ほのぼの系です(笑)