自分と誰かの信頼関係=自分と神の信頼関係

すこし前にみた、夢の話。

ある女の人が、男の人と子供たちと、楽しそうに、幸せそうに、暮らしていた。

(※わたしは、それを第三者的に眺めていた。夢っぽい感じだね)

そして、子供たちのうちの一人が、暗い顔をしていたので、わたしはその子供に、どうして暗い顔をしているのか、尋ねてみた。

すると、その子供は「自分の父親は、あの男の人じゃなくて、別のところにいる。自分の父親に会いたい」と教えてくれた。

わたしは、その子供の父親を探しにいった。

どこにいて、なにをしているんだろう?と、思いながら、ただ、わたしは、その子供の父親を探していた。

すると、その父親らしき男の人が、みつかった。

その男の人は、仕事部屋のようなところで、パソコンのモニターに囲まれて、一生懸命仕事をしているようだった。

「なにをしているの?」と尋ねると「あの女がいかに間違っているかを、暴いているんだ」と、教えてくれた。

そして「あの女がいかに間違っているかをまとめた資料」のようなものを、わたしに見せてくれた。

その姿をみて、わたしは、この男の人は、元妻のその女の人に、今でもこんなにも強く愛を求めているんだ、と思った。

愛憎という自我の表裏感情としての愛。恨む憎む嫌悪する憎悪するというのは、愛とぴったりとくっついて、離れない。

「あの女がいかに間違っているかをまとめた資料」には、

あの女は最初、自分にとても夢中になってくれていたということ、そしてその”夢中さ”が、あるときからほかの男に向けられた、ということが、「証拠らしきもの」と一緒にまとめられていた。

「その女の人は、ある時点までは、自分に夢中(=強く愛を求めていた)だったけれども、途中から、ほかの男の人に夢中になった」とのことだった。

「その女の人の”愛を求める先”というのが、最初の男の人である自分から、次の男の人へと、変わったということですね」と尋ねたら「その通りである。これは、おかしい」と、その男の人は答えた。

「その女の人は、あなたに強く愛を求め続けるべきだった、と思いますか?」と聞いたら「それは違う」と言った。

そして「出会ったばかりの頃の、無邪気に遊んでいるその女の人の姿」の映像を見せてくれた。その女の人の姿を、その男の人は、今も求めているようだ、とわたしは感じた。

外側に愛を求め続けるわたしたちと、心の中に愛があることをどこかで覚えているわたしたち。

外側に求め続けても、苦しいだけ。これは、外側を否定したい話ではない。内側が先。

苦しい夢になるか、幸せな夢になるかの二択しかなくて、選択の力は「内側(自分の心)」にしかない。無意識的な選択と意識的な選択、どちらもある。

それを確認したわたしは、その男の人に「お邪魔しました」と言って、自分の家に帰ることにした。

自分の家に帰りながら、心の中で子供に「あなたの父親は、今もあなたの母親のことを忘れられないようだったよ」と伝えようと思ったけど、それはやめて、心の中で、その子供を抱きしめた。

そして、わたしは、家に帰って、虹を描いた。

********

で、目が覚めました。

この夢のストーリーは、わたしの中で「(社会問題的)教祖と信者の構造」とリンクしています。

社会問題に発展した教祖と信者。

外側の誰かやなにかへの盲信。

外側の誰かや何かに、強く”なにか”を求める苦しみ。

その”なにか”というのは、愛だったり、助けだったり、救いだったり、真理だったり、理想だったり、神だったり、するのかもしれない。

この”なにか”というのは、漠然としていて、万人が納得できるような言葉が、わたしにはよくわからないのだけれども。

一旦、「神」としておきましょう。わたし的には「神」が一番しっくりくる(笑)

神がずっと与えてつづけてくださっているのは、(自分の心の)安心感や充足感。満たされた気持ち。自由な開放感。無邪気さ。深い深い喜び。安らぎと静けさ。

怒られることもない、裁かれることもない、咎められることもない。ただただ見守ってくれている安心感。

「内側」にしかないその神を感じること、感じてみようと日々思うことは、ほんとうの意味での「強さ」と言えるのかもしれない。

「神は完璧でしかないし、無条件の愛でしかないし、不変」なので、ここを内側に感じてみようと日々思うこと、感じてみたいと思うこと、心の奥で安らぎをただ感じてみること、そして、感謝することが、祈り。

ただただ、なんの証拠もなく、なんの根拠もなく、手放しで、自分の心の奥にある神を感じてみようとすることは、最初は、とても恐ろしいことに感じられる(ことがよくある)。意味がないことと感じられることもある。

これはもう「自我の暴動」です。

自我は「証拠だせ!根拠だせ!まずはそれが先だ!」といつまで経っても、外側になにかを求めるように強く求める。不信感、警戒心の塊。

ただただ、なんの証拠もなく、なんの根拠もなく、手放しで、自分の心の奥にある神を感じてみようとすることを、ほんの1ミリの勇気を出してみる。

これを、何度も、小刻みに、繰り返してみる。なんどでもなんどでも、無条件に内側に向かい続ける。

「無条件に」これが、自我はこわいところですが(笑)

でも。誰かを信じても裏切られることはありますし、外側や未来に求め続けても得られないこともありますが、

自分の心の奥の奥、自我ではない、奥の奥、ここは、ずっと、「わたし」と共にいます。

この「心の奥の奥(自我以外)」と自分の信頼関係が、ほんとうに、とても、大事。

神様は、ずっと、わたしと共にいて、与え続けてくださっている。

「ない」と言い張るのが、わたしたちが肉体を持つ以前から選んだ「自我」。

そして、もう一つの選択肢として、ずっと心の奥の奥にあるのが「神」。

ご予約受付中のセッション・クラス

4月のセッション受付状況

※(3月5日更新)3月のご案内が土日祝満席、平日残りわずかです。

4/6スタート!グループレッスン募集開始

  • URLをコピーしました!
目次