「それは、依存ですよ」と言われて、傷ついた、責められた、すごく嫌だと思った・・
というお話はとてもよく聞きます。
わたしも、そう思っていたことがあるというか。
わたしの場合。
もう、随分と、昔話ですが。
わたしの場合は「そう言われて傷ついた」というよりも、
自分が、一歩外に出たら、
自分が、誰かの前でちょっとでも気を緩めたら、
「それは、依存だよ」
と、言われると「わかる」みたいになっていて、
そして、「それは、依存だよ」と言われる=自分が裁かれ、咎められているということ、悔い改め、歯を食いしばってでも自分をなんとかすることを要求されているということ
・・みたいに思っていたので、
引きこもっていた、という感じでした。
めちゃくちゃややこしいですよね。笑
それで、そんな過去が祝福されたときに感じた景色というか、風というか、それは、どんな感じかというと、
「依存」という言葉に、反応が出なくなった。
「依存」という言葉と、「たまごやき」という言葉が、同じに感じられる、みたいな感じ。
それで、そうなった最初の頃(依存という言葉に反応がでないことに気づいた頃)のことを、思い出したので、書いてみたいと思う。
このときも、毎日、祈っていて、でも、全然、自分がエゴを教師にしているのか、聖霊を教師にしているのかもさっぱりわからず、
「わたしがすることなすこと、すべてを、導いてください。エゴを選んでいるなら、一刻も早く気づいて、立ち止まって、あなたを選び直せるように、わかりやすく教えてください」と祈っていた。
そう祈ると、心からの安心感をかんじられたので、そう祈って、安心を受け取り続けた。
そのころ、身近にいた人たちに対する罪悪感や恥が一気にふきでてきていて、わたしは、聖霊に助けを求めまくって、祈りまくって、文字通り、一日中祈っていた。
その中で、身近にいた人たちに、「もし、わたしに対して、依存的だと感じるところや、不快に感じるところがあったら、ぜひとも、教えてほしい。今までのこと、ほんとうに、申し訳ないと思っている」と、自分が言ったことのことを、今でもよく覚えている。
このように伝えてみて、自分が、安心したのと同時に、それを聞いた身近な人たちは「そう言ってくれて、なんだかよくわからないけど、とてもうれしいし、安心した。ありがとう」というようなことを言ってくれたことを覚えている。
そのあと「ちょっとあんた、ここ、依存的だぞ」なんて、言われたことは、一度もなかった。(まぁ、もしかしたら、これからあるかもしれないけど笑)
また、あるときは、依存関係(奇跡講座的にいうと特別な関係)であり、わたしが聖霊に捧げ続けていた相手に対して、
「それは、依存だよ〜」という言葉が自然と出てきたことがある。
すると、その相手が、大きく動揺した。
具体的なことは忘れてしまったけど。
たぶん、一瞬、責められて、怒られたと思う。(よく覚えていない・・)
それで「いや、あなたが悪いとか、依存が悪いとかって言ってるんじゃないよ。わたしも依存的なところ、たくさんあるとおもうし。今までずっとそうだったと思うし」と言ったら、相手の表情が、雰囲気が、みるみる、やわらかく、ゆるんでいったことを、今でも、よく覚えている。
このようにいうのが、正しいのか間違いなのか、さっぱりわからない。
ただ、わたしは、祈り続けて、常に、ゆだねつづけたい、すでにゆだねたことを思い出し続けたいと、このころも、いまも、ずっと、おもっているし、そうしている。
それで、わたしは別に、今、「依存的なところが治りました」とか、いっさい、おもっていないし、「今も、依存的なんです」とも、思ってない。
そもそも、そういう話じゃない。
ただ、依存関係(特別な関係)を持った人が目の前に現れると、わたしは、一瞬で、身体が、反応する。
だいぶ、以前ほどの痛みを感じなくはなってきているけれども、一瞬で、身体が反応する。
泥沼の関係になるか、神聖な関係になるか。
まさに、心に選択する力があるのだけれど、神聖な関係に捧げた瞬間に、相手の方が遠ざかる、ということは、今までに、なんども、経験があった。
それで、時を経て、再開する、ということも、なんどもあった。
これは奇跡講座を学びはじめる前から、あった。
わたしの中には、何度も何度も、「期待」「こうなったらいいのに」という思いや、相手を変えたいと思う気持ち、相手に自分がいいと思っているものを受け入れてほしいという気持ちが出てきた。
何度も何度も、手放し続けた。
手放す、ということは、自分が今考えているものよりも、はるかに大きいものを受け入れたい、ということにほかならない。
でも、これは、まだ、たくさんの練習が必要だと思っている。
そして、「まだたくさんの練習が必要」というのは、「目の前に宿題が山積み」という感じで言ってるんじゃなくて、
まだまだ、わたしは、たくさんの奇跡と癒しの贈り物を受け取りたい、ということでもあります。
すべてのさみしさを、神の愛に捧げます。