鏡の法則を受け入れる、生きていく、ということは、今世で転生するようなことが、起きる・・・ということが、わたしだけでなく、よくあること、のようなです。
今世で、同じ肉体を持ったまま、生まれ変わるような感覚。
わたしは、これを、何度か経験したかもしれません。
マトリョーシカ人形のようなイメージかもしれません。
何度か「分厚い殻」のようなものを脱ぐ感じ。
「外側にあった殻」の記憶は、多次元的になり、「わたしの記憶」という部分はある意味頼りないものになる。
たくさんの心理療法、メソッド、教えがある中で、わたしにとっての運命的な出会いだった「鏡の法則(投影の法則)」は、容赦なく「偽りの自己」からの脱皮を促し、
この世での様々な煩いとか、この肉体とか、「自分が」という「殻」というのか、「シール」というのか、それは「剥がれ落ちていくよう」で、
いわゆる「輪廻」は強制終了というか、毎日、終わっていく。
今のわたしの感覚で書くと「飛び越える」感じがあります。
ヨガなども、本来は、こういったことを、教えている、そうですね。
「肉体」を使って「肉体ではない本来、ほんとうのリアル」に同一化していく、みたいな感じなのでしょうか。今度、ヨガな方に、お話を聞いてみたい。
こんなことを、今日、書きたくなったのは、現在進行形の、クラスの録画の編集をしていたからです。
その録画された動画には、「わたし(ringo)」が映っていて、動画の中で喋っているのですが、それをみながら、「これは自分だ」という感覚が一切なかった。
それは、わたしにとって、深い安心を伴う感覚でした。
もしかしたら、スピリチュアルで「献身」という言葉が出てくることがあるけれども、ああ、こういうことか、と、腑に落ちたのでした。
この肉体も、「わたしという人間」も、リアルがリアルではなくなったようなこの世界で、リアルを、深い安心・安らぎを、ワンネスを、共有するためにある、という感じ。
今日も、ここだけに、エネルギーを注ぎ続けられますように。
※前から「動画で話したい」ということを、よく思っていて、現在は準備中です。
創造性の源(神性)となぜ繋がれていないような感じがするかというと、
自分で作り出した物語を信じ込んでいるからです。
外側に答えがあると思い込んでいるからです。外側に答えや原因があると信じることは、分離です。その”ソース”と”わたし”は分離している、という感覚。
でも、この一年か、数ヶ月かで、実感というか、痛感というか、印象的だったのは、
昔、そこまで深く考えずに、ある苦しみの日に、ふと出会った「鏡の法則」というのは(それを実践し続けるということは)、かなり、ものすごいことだったんだ、ということです。
「かなり、ものすごいこと」というのは、ほんとうに、心の奥の奥で、嘘”偽れない”自己のところでの計画通りになる、ということ。
これは、なんというか、本人にとって、ほんとうに、ほんとうに、一切の妥協ない、一点の曇りもない、深い深い静かなよろこびと共にあるところで、
言い換えると「魂が喜ぶ」ところで、こことつながるということが「思うまま」。
コントロール欲求・思い通りにしたい欲求、から、コントロールされていた次元から卒業です。
コントロールしているのは、すべての中で唯一、信頼できる”それ”だけであって、エゴの演劇(自分や誰かを責めたり、裁いたり、罰したり、決めつけたり等々)は、すべて、ただただ優しく見守られている。
わたしは、ずっと、人の本音と建前(意識上)が感じられて、それがとても苦しかった。
あるとき、わたしは、人の無意識を読み取って、行動し続けていたことの「証拠的現象」を立て続けに見せられる、ということがあった。これも、わたしにとっては、どちらかというと、苦痛なことでした。
その苦痛の中で、”届いた”そして”受け取った”のが、「ほんとうは光しかない」ということで、このようなことは、あらゆるところで言われていることなのかもしれないのだけど、”受け取った”のは、今年の話。
「ほんとうは光しかない」というところで、創造は行われている。止めているのは、こちら側の方。
もう、ここにしか、ほんとうに、興味がなくなりました。
でも、こういったことに、ほんとうの意味で、向かい続ける人々(?)、あるいは、そのようにして生きている人(?)というのは、
今まで、そして、今年出会った複数のメンターというか先輩というのかの話を聞いても、全体の1割、2割程度だそうです。
確かに、そういった割合は増えているのは、増えているらしいですが、やはり、全体の1割、2割程度、だそうです。
去年頃、わたしの中で「スピリチュアルカウンセラー、ヒーラー、サイキック、霊能者、メンター、引き寄せの法則の・・・等々のほとんどが偽物なんじゃないか」という怒りというかジャッジというか、そういうことがテーマとして浮上していたのですが、もう、そういうもの、らしいです。
エゴによる洗脳、というのは、それほど、強烈なもので、霊能力・サイキック力等と、「本来の自分と出会っているかどうか」とか「自分自身の浄化純化執着等が終わっているか、向き合えているか」ということは、まったく、関係ないみたいです。
もう、そういうものなんだ、と思うと、すっかり楽になったし、気にならなくなりました。
「そう言われてみれば、そうだよね」という感じです(笑)
スピリチュアルについては、少し前まで警戒していたからか無知すぎたので、学びの日々でもありますが、学びというのは癒しでもあり解放でもあると、再確認中です。
そんな感じで、たとえば恋愛結婚人間関係などでいうと「駆け引き」「操作術」「〇〇させるテクニック」などは、もともと興味がない方でしたが、
ほんとうに、それをする必要がないというか、むしろ、遠回りになります。
むしろ、遠回りになります。
これは、決して、ダメなことでも、いけないことでも、責められることではなくて、必要じゃないことに
時間をかけて、遠回りしている、
というだけです。ほんとうに、ただただ、それだけなんだ。
誰も、責めない。
自分を裁いているように見えたとしても、ほんとうは、そうじゃない。
でも、自分は、自分のことを、責めているかも、しれません。これさえ、責められることでも、問題視されることでも、深刻視されることでも、ない。