自分を愛する=他者を愛する=全体を愛する
愛するとは、愛されるということ。
愛と思いやりは異なるし、愛と恋も異なるし、愛と憧れも異なるし、愛と崇拝も異なるし、愛と条件付けの愛も異なります。
「一方を否定して、一方を肯定する」というのも、愛でもないし、全肯定でもないです。
そんな「内側の反映」「内側に原因がある」ということを実践していく中で、重要になってくる概念、決して無視できない概念は「ありのまま」です。
この「ありのまま」について、もう一度、テキストにしてみたいと思います。
たとえば、自分のことを「めんどくさがり屋で、だらしがない」と思っているとしましょう。
そして「実際にそうだ、だってこれこれこうだから」と言いたいとしましょう。
この「めんどくさがり屋でだらしがない自分」=「ありのままの自分」ではありません。
これは、どういうことかというと、
「めんどくさがり屋で、だらしがない」というのは、
自分が自分をそう見ている・そう思い込んでいる=過去をベースとした思い込み、ともいえます。
あるいは「人からそう言われたから、何人もの人からそう言われたから」というような場合もあるかもしれませんが、外側を基準にするようなことは、やめるのでした(内側基準、内側に軸、内側に原因、です)
たとえば、自分のことを「怒りっぽい性格である」と思っているとしましょう。
そして「実際にそうだ、だってこれこれこうだから」「その証拠も出揃ってるんだぞ」「実際に、ついさっきも」「小さい頃からそうだ」と言いたいとしましょう。
この場合も、同じです。
「実際にそうだ、だってこれこれこうだから」「その証拠も出揃ってるんだぞ」「実際に、ついさっきも」「小さい頃からそうだ」←これは、よーく見ると、過去の話です。
3歳の頃の自分と、今の自分は違うでしょうし、
3年前の自分と、今の自分も違います。
「ここ3ヶ月くらい、そのような状況が続いているから、そうだと言える」と思った場合は、
「今、その連鎖を終わらせたいと、自分が思うかどうか」です。
「そして、今、自分の内側にはその力がある、ということを、受け入れたいと、自分が思うかどうか」ただそれだけです。
終わらせる、受け入れる、手放す、でもなく、とにかく重要なのは「そうしたい」と、自分が思うかどうか、
3日坊主、1週間坊主、”3回目の浮気”、”3年間の家出”をしたとしても、それを続けるかどうか、だけが重要なのです。
言い換えると「終わらせる、受け入れる、手放す」というのは、そうしたいと自分が自発的に、ありのままの自分を受け入れるために、そう思うかどうか?です。
なので、ここでは、性格改善や、感情のコントロールの話などは、一切していません。
自己否定を自分だと思い込んでいる以上、外側もありのままに見ることができません。
ありのままに見ていない、ありのままに見ていないことさえ無自覚な状態で、いくらコントロールしようとしたところで、劣等感、自責、罪悪感、惨めさなどが広がる(ように感じる)だけです。
自己否定も、
自己否定をベースに作り上げた自己肯定感も(〇〇な自分は良くて、××な自分は悪いというジャッジや条件付け)
孤独感も、
無価値感も、
すべて、エゴ(エゴとは言い換えると自己中心性、自己愛着、作者倒錯等々)が作りあげたドラマです。
ほんとうは、できても、できなくても、尊い存在です。
能力(できるできない)=存在価値、だというのは、エゴによる勘違いです。
これを、わかるか、わからないか、とかじゃなくて、
「自分はまだよくわかっていないけれども、そうらしいぞ」と、受け入れたいか、どうか。
そして、受け入れたいと思い続ける(=練習)か、どうか。
「人からそのように言われたから」という他責的習慣に警戒しながら、「ありのままで生きてみたい」と思うかどうか、思いつづけるか、どうか。
たった、それだけ、です。
そうこうして、ありのままに生きるようになると、まず言えるのは、まわりの人が、まわりが、優しくなります。
本当にしたいことをしていたら、まわりは優しくなります。
過去という自己呪縛から、勇気を出して自分を解放してあげると、
あるいは、相手を解放することで、自分が解放されていることを受け入れると、
「今までなかった感じ」になります。だから、驚きな喜びな奇跡な感じだったりもします。
ある場合は、本当に、ピュアにピュアになっちゃって、
「想う=なる」となる方もいらっしゃって、その場合は、本当に、自由に描いてみる勇気、自己信頼、ですね。
「罪悪感で、自分を責めたり咎めたり虐めたりした方がいい」という「悪魔の囁き」を退ける強さを、感じ続けるのが、自分を愛するということでもあります。