神にも人にも世界にも無条件に愛されちゃう覚悟

今回も、祈りに関連する記事でもありますし、【Xmasプレゼント企画】3ヶ月お祈りレッスンに関連する記事でもあります(このアナウンス、しばらく、続きます)

 

 

ここでの祈りは、「宗教に基づくもの」や「なにか特別なお経や祝詞を唱えるもの」では、ありません。

わたしは確かにシャーマンの元で学んだ時期はありますが、それとは異なります。

 

 

どちらかというと、小さい頃からわたしの父方祖母から学んだこと、そのあと、わたしがおとなになって、精神世界、宇宙の法則、形而上学に興味を持ち、「ああ、このことだったの」と答え合わせしたところでもあります。

なので「門外不出の極秘情報」などでもなく、どちらかというと公の話、です。

けれども、公すぎて、多くの人から見落とされてしまっている、埋もれてしまっている、軽んじられている、一部の人からは疑われている、という意味で、

ある意味秘密なのかもしれません。陽極まれば陰に転ず、みたいな感じです。

そして、ここでの祈り(願いたいときも含めて)というのは、必ず現れるので、

「幸せが隅々まで満ち溢れた人生を生きる覚悟」「無条件に愛されちゃう覚悟」「歯を食いしばって我慢して頑張る時代が終わる覚悟」が、必要なのかもしれません。

この覚悟ができてないと「奇跡の前で一時停止」「チョコレートのアソートメントのなかで一番綺麗で美味しいチョコを最後までとっておく」みたいな時間が、無駄に長くなりすぎるからです。(これがいわゆる抵抗です)

ということで、この記事を書きます。

 

 

ドラマというのは、みていると、いろんな感情が出てきます。

胸がキュンとしたり、そうだそうだと、自分の中に眠っていた感情が表に出てきたり。

ドキドキしたり、こわくなったり。イライラやもどかしさを感じたり。

スカッとしたり。

割り切れないような気持ちになったり。ハラハラしたり。

なんだか優越感を感じられたり。よく言われることでもありますが「ヤクザ映画鑑賞後の男性たちは、映画館を出たあと、肩で風を切って歩く」みたいな感じですね。女性にも似たようなことあると思います。

 

 

この、ドラマのような視点から、自分の人生を生きていると、たくさんの「いい登場人物」「悪い登場人物」「大好きな登場人物」「ほんとうに困った登場人物」が出てくることになりますし、

「どうしよう・・・!やばい・・・!」「うそでしょ(どよーん)」みたいなことが、どこかの時点で起きてくるのです。

自分の心に原因があることを忘れて、外側に問題をみたままの生き方というのはモグラ叩きのゲーム機に張り付いているようなものです。

Aさんという嫌な人がいた。Aさんとは疎遠になったけれども、今度はBさんという嫌な人が出てきた。思い切ってBさんとの連絡を経ったら、今度はCさんというもっと大変な人が出てきた・・・こういうことが、繰り返されるのです。

このとき、何が起きているかというと、投影です、心の中にある「自己否定の罪悪感」だったり「ない、足りない、不足している、愛されていないという思い込み・信念」だったり、「癒されてない過去の傷、関係性」だったり、するのです。

 

 

ドラマには最終回があることがわかっているし、もし、自分が思った通り、期待する展開ではないとしても、自分には関係ないと、割り切れますが、これを人生でやってしまうと、あるときはいいんだけれど、きついときはほんとうにきついものです。

ドラマの人生を生きていると、「人生楽ありゃ苦もあるさ」、過激派の方は「ジェットコースター」のようになる方もいらっしゃいます。我慢抑圧されてる場合は「文句はないけど、喜びもない・・・」ということもあるでしょう。

 

 

「感情」って波動なのですが、ドラマの中に生きるというのは、(自我の)感情に振り回されて生きているようなところがあるのです。

しかし、自我は、感情的になること・ドラマで生きることをまだまだやっていたい、次のステージに行くのがなんだかさみしい、ということがあるのです。愛憎の両面感情をひっくり返しながら、生きていたい。自己卑下と優越感を行ったり来たり、していたい、と自我はいうのです。

 

 

「感情」というところを使ったドラマで生きるということは、「体脂肪が高すぎるとき」みたいな状態とちょっと似ているのです。

エネルギーフィールドが、重い、適正体重じゃない感じです。

いいときはいいのですが、落ち込むと長いし、問題を引きずってしまう。奇跡など信じられなくなってしまう。内側ではなく、誰か自分よりもすごそうな人に解決してもらおうとする。

さらに、ドラマというのは「起承転結」「ドキドキ、ハラハラ」が必要ですので、疑ってみたり、怯えてみたり、悪い間違った人をみて腹を立てたりする必要があるのです。愛・喜び・自由・平穏・ユーモア、そういったもの以外の、何かが必要になってくるのです。

コントラストを強くする必要があるし、ずっと(ほとんど)愛・喜び・自由・平穏・ユーモアだと、逆に「視聴者」は飽きてしまう、という感じのことを、自我はわたしたちに思い込ませているのです。

 

 

高体脂肪率で、「望むチャンネルを選択」と意図してもある程度は動くと思います。

まだ実感してない方は、ぜひ願い事リスト書いてみてください。このブログ読んでくださってる方は、ほとんど叶う、細かなことは叶うという方ほとんどだと思います。

けれども「ここぞ」というところで、すうっとオーダーが通らないのです。

神聖な法則への疑いが強い・混線している場合・知らない場合などは、だいじなところほど、チョコレートでベタベタになった指でテレビのリモコンの「1と2と3を同時におす」みたいなことを、してしまうのです。だいじなところほど、そうやって、自我がしゃしゃり出てきて、内なるハートからの声をかき消そうとするのです。

 

 

これは、感情をなくしましょう、という話をしているのではなくて、なんていったらいいのかな、「人生楽ありゃ苦もあるさ」という人生は確かによくある、一般的大多数派の話かもしれませんが、もっとなにかいい、しっくりくる方法があるはずだ、という、直感のようなものがあるからこそ、

自己啓発やスピリチュアリティや現実創造についての本を読んだり、ブログを読んだり、YouTubeを見たり、セミナーに参加したりしてきた、ということもあると思うのです。

 

 

ほんとうの心からの喜び、完璧な幸せなフィールドのなかで、純度100%のありのままの自分で愛する=愛されるを生きる、

アップダウンにドキドキハラハラするのではなく、

文字通り「神がかった奇跡」に驚きながら、大切な人、パートナー、家族、関わる人々と喜びを分かち合う、そんなふうに生きるという、選択肢もある、

ということです。

 

 

・「人生楽ありゃ苦もあるさ」、アップダウン、幸せを目の前に走り続ける人生

・完璧な幸せなフィールドのなかで、純度100%のありのままの自分で愛する=愛されるを生きる。いつも奇跡に驚きながら、大切な人、パートナー、家族、関わる人々と喜びを分かち合う人生

の二つがあって、「こっちを選ぶ」と決意するのは、運命でも、誰かでもなく、自分なのです。

「ほんとうにそうなりますか?わたしでもできると思いますか?その証拠は?」と、誰かに聞いてる場合じゃなくて、自分で選ぶ、今決める、しかない、という感じです。

そうだそうだ、この決めるとか、選ぶとか、手放すの感覚がよくわからない方ほど、心の奥を感じながら祈ってみてください。

内なる神、ハイヤーセルフに、なんでもいいので、語りかけたり、質問したり、してみてください。必ず、その答えは現れます(なので、それをみる、受け取るのも、祈りのポイントです)

 

 

もちろん、大きな切り替わりの時期(転換期)にいて、今まで「望む方をただ選ぶ」をしたことがないからコワイとか、「望む方の内容」がほんとうに今までにない感じの規模の幸せ・大きな変化すぎてコワイとか、という方も、たくさんいらっしゃると思います。

愛とか、奇跡とかがこわい、というのが、自我でもあります。

「どうしても不安だし、スムーズに幸せになるなど、おかしい、どうするんだ、もっとエビデンス集めなくてはならない」みたいなことを、自我は騒ぎます。笑。わたしも経験あった。笑

 

 

そんなときは、ただ目を閉じて、ご自分の胸の奥の奥、からだの奥の奥を感じてみます。

ふくらんだり、しぼんだり。

波打ったり。

少しの間、ただ、感じてみます。

この波は、ずっと、ここで、ただ、そうしてくれていました。

 

 

わたしたちが、そんなことを忘れて、外側のドラマに釘付けになって、劣等感を感じたり、優越感を感じたり、「あの人はほんとうに困った人だ」と腹を立てているときも、

ここで、こうして、波打っていました。

この波の、さらに奥にあるのが、神であり、大いなる宇宙を現す内なる宇宙です。

その神が、たくさんの喜びと幸せと奇跡の体験をすでに用意していることを、こんなふうに、波打って、教えてくれているのです。

 

 

わたしたちには、その力を差し置いて、

A 「スムーズに幸せになるわけがない、おかしい、なんか裏があるはず」とガヤガヤ騒ぎ続けることもできます、ここにいくらでも時間をかけることはできます。

B ただ、心の力(神であり、大いなる宇宙を現す内なる宇宙)を受け入れ、すでに用意されているたくさんの喜びと幸せと奇跡の体験を受け取ることもできます。

Bを選びたい場合は、それを選ぶと決意するのは「今」しかないのです。「でもなんのことだかわかりません、ガヤガヤ」と言いながら、後回しにするのはAを選ぶということになります。

Aを選ぶときは、頭の理解、過去の解釈を、越える必要があるのです。「証拠だせ」という自我の決まり文句ではなく、あなたの心の奥の感覚、内なるガイダンスに従うと決めるのです。

 

 

しかし、このAを選ぶ、そのスイッチの切り替わりの瞬間、特に大きな切り替わりの時や、揺らぎが大きかった場合、

ご自分でかたく「これはどう考えたって困難で時間がかかる。なぜならば」と盲信していたかもしれない場合は、練習が必要です。

継続して、練習する必要があります。

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