練習、継続が苦手という場合

練習が苦手という場合。

これは、ストレートに書くと、

「今までの自分・・・今までの自分がやってきたこと、信じてきたことが、否定されるようだ」と、心の奥で、こわくなってる、場合があります。

 

 

なにかを練習しはじめるとき「それをしなかった頃の自分」から「それをするようになった自分」の間にいます。

その「新しいもの」をおそれる、変化をおそれる、というのは、誰にだってあることです。

小学生から中学生に進学するとき、学生から社会人になるとき、新しい土地の新しいお家に引っ越すとき。

わくわくする気持ち、緊張する気持ち、名残惜しい感じ、新しい生活への期待や希望や不安など、さまざまな心の揺れがあるものです。

このようにして、心が揺れることを、「自分が捕まえさえしなければ、放つままにしておくならば」それは、煤を払うようでもあるし、瓶に塩をたっぷりと入れて最後にトントン、とするようでもあるのです。

逆に「捕まえておきたくなるとき」というのは、過去の癒やされていない感情、言い換えるならば、まだ受取拒否していた愛に気づいていない、ということです。だから、大事に、大事に、持っておきたくなる。

 

 

「今までの自分・・・今までの自分がやってきたこと、信じてきたことが、否定されるようだ」

例えば、心理学というのは、心と行動の科学的な学問です。

けれども、スピリチュアリティ、というのは「心がすべて、内側がすべて」ということになってきます。

 

 

何人もの方から「祈るのは抵抗がある」「わたしは悟りを開きたいわけじゃない」「神にゆだねるとは、この願いを諦めなきゃいけないということですか?」「神という言葉に抵抗がある」「ハイヤーセルフに心を合わせるということは、結婚も恋愛もしなくなるんじゃないですか」等々と、言われてきました。

両手にはとても収まりきれない、何人もの方からです。

そして、さらっと奇跡へと流れていく方と、奇跡の手前での滞在時間がかかる方と、いらっしゃいます。

 

 

ここで「奇跡の手前での滞在時間がかかる」ということを、他の言い方で言うと「抵抗が強い」と言うことができます。

では、この「抵抗が強い」というのは、どういうことか。どのような傾向の人が抵抗が強いのか。

 

 

これは、一言で言うと「従順な人」です。

従順な人、素直な人、一途な人、人の言うことをおとなしくよく聞く人。

これは「普段から、誰にでも」と言うことではありません。

多くの場合「一人(もしくは複数人)の誰かの言うことを、ずっと守ってる、守ろうとしてる」状態です。

 

 

つまり、本来の自分自身の感覚で生きたら、たやすく、スムーズな心地よい流れに乗るところを、

「一人(もしくは複数人)の誰かの言うことを、ずっと守ってる、守ろうとしてる」から、うまくいかなくなってる、ともいえます。

これを読んでいる半分くらいの方は「他人事」「自分は違う」と思って読んでるでしょう。

もしそのような場合は、このことに、明確に気づいたら、それだけでも、かなりスイッチが入ると思います。動き出すと思います。

 

 

なかには「これは一度気づいたけれども、癖づけがしっかりついている(また繰り返しているかも)」と言う場合は、大いなる存在を受け入れるときなのです。

そしてこの「大いなる存在を受け入れる」というのも、また、大きな変化、今までの習慣にないことで、突拍子なく聞こえたり、怪しく聞こえたりすることもあるかもしれませんが、それが抵抗です。

今までのやり方でうまくいかないレベルまで成長しているから、このような話に出逢ってるのだと思います。

 

 

そして、継続することは、「この苦しみから逃れたい」「この苦しみから救われたい」「うまくいかないからうまくいかせたい」「自分はダメな存在だから、変わりたい」「お金がない、お金の心配をなくしたい」「この苦しい痛みを取り除きたい」という前提、目的だと、継続できません。

いつまでも「苦しい」「なぜうまくいかないの」「自分はダメな存在」「お金の心配」「苦しい痛み」という、前提・目的は、そのまま現実・結果として現れる、受け取り続けることになるからです。

外側の誰かや何かに救いを期待して、がっかりした、ということを、繰り返すことに、なるからです。

 

 

このような場合、じゃあ、どうすればいいかというと。

例えばですが

「わたしの心の奥には、無限の可能性、創造性があって、それとつながることで、奇跡(つまり人智を超えたありえない、喜び、幸せ)を体験することができる。ぜひそれと繋がりたい」

あるいは、

「わたしの心の奥には、無限の可能性、創造性があって、それとつながることで、奇跡(つまり人智を超えたありえない、喜び、幸せ)を体験することができるらしい。ぜひそれと繋がりたい」

このような前提、目的だと、継続はできるのです。

「らしい」「繋がりたい」「体験したい」があれば、十分なのです。

こんなに、わくわくすることは、ないです。

 

 

今のわたしが思い描いていること、ほしいと願っていることは、叶うかもしれないし、叶わない場合は、もっと素晴らしいことを体験できる。もっと素晴らしいとはつまり、わたしと関わる人々全員にとって完璧な幸せ、完璧な喜びとなることです。それを体験できる、ということです。

 

 

わたしの場合、心理学を学びながらスピリチュアリティにブレーキをかけていた頃(今思えば、集合的無意識、魔界、アストラル界への扉が開いたまま、というのがよくわかります)

セッションをしながら、やはりどこかで「人は悪口、愚痴、不平、不満をいうものだ」「ネガティブに寄り添うことは大切」「お金がない、お金の心配がある、ということは、あるよね」「いわゆる毒親の場合は、その関係性が愛に戻ることは、ないこともあるよね」「感謝と罪悪感はセットだから罪悪感も大事」という考えが忍び込むことがありました。

忍び込むというか、外側にそういう意見を聞いた時に、同調するということが何度もあったのです。

この辺りの「アイディア」が完全にひっくり返って、見事に体験として受け取れる、というのが、まさに神業だと、祈りを続けることで感じています。

今感謝することで必ず与えられる、受け取れる、現れる、体験する、というのが祈りです。

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