自分と向き合うこと。
世間の目、誰かからの評価や価値観などの外軸ではなく、内側のハートの声に耳をすませて、従っていくこと。
自分への条件付けの愛ではなく、今、無条件の愛を受け取り、感謝すること。無限の可能性、創造性に導かれていくこと、それが隅々まで広がることを、見ていくこと。
これって「未熟なわたしから、成熟したわたしへ、成長していく」とか「前進していく」ではなくて「今に戻る」こと。
「(自分はまだまだ不完全な人間だから)完璧な人間にならなくっちゃ」というのは苦しみしか生みませんが、
本来の自分自身(スピリット、高次の自己)というのは完璧であって、そこと一致していく、心を合わせていく、ということです。
神聖さとは、今にしか、存在しません。
脳内旅行で、過去のことを考えて自分や他人を責めたり、未来を恐れたり不安がったり、と、思考があっちゃこっちゃする中では、自分はジャッジメントやコントロールといった自我に囚われてしまっています。
ある程度の期間は、それで、なんの疑問もなく過ごせる、むしろ楽しく過ごせる、ということもあるかもしれません。
誰かを束縛したり、されたり、誰かや自分が犠牲になったり、自分が特別である(つまり全体から切り離された個別としての存在である)、というドラマが、もう、無意味である、自分にはふさわしくないステージに来ている、ということです。
これが苦しい、つらい、という場合は、自分と自分が不一致であるということなので、一致していくのです。
自我の洗脳から目覚めることは、真の自己の手をとること、神聖な存在と共に生きること。
自らの、幸福、自由、喜びの名において。
前進ではなくて、今に戻るので、
”前進しているのに、後退したように感じられる”ということは、非常に多い、です。
セッションやレッスンを受けてくださる方は「前進してきた」「前進力」がある方が多いのですが、同時に潜在能力も高い方も多いのです。
すでに、結構な体験を乗り越えてきた方だったり、成し遂げてきた方だったり、向上心が高い方が多い。
「自分の力でがんばる」「自分の計画」を手放すことは、従順な方ほど強い抵抗感を感じることが多いようですが、これを、手放すということは、「わたしのほう」は、ある意味、かなり、暇になります。
なぜか時間がない、なぜか忙しい、やることがいっぱいある・・・という場合は、かなり「今」に近づいてる状態でもこのようになるのですが、
このエネルギー的忙しさが、無くなる、シンクロでタイミングよく運ばれていく。
来る日も来る日も、エアロバイク漕いでるような忙しさが、突然、なくなる、あるいは、だんだんと、薄れていく。(わたしは、突然、なくなった系でした)
ポテンシャルが高い方の場合、無自覚だったり、なぜか罪悪感や恐れが強かったり、誰かから評価されても「なぜ?不思議・・・」という感覚になる場合も多いようなのですが、でもまぁ、そうなのですよね。
「自分の力」ではなく「神の行い」をしているから。
神がすることだからする、神が見せてくれるものを見る。
ほんとうに、自我が立てた計画ではなく、神の計画をたくさんみたい。
自我が立てる計画は、よく見てみるということをするならば、いつでも、おそれ、不安、犠牲などが、裏に張り付いていて、しかも、パターンが無個性というか大抵何種類かに決まっているものです。
でも、神の計画というのは、ほんとうにいつでも、不思議、驚き、喜び、エキサイティングです。
あれ、だから、スピリチュアル系の人って、みるからに細胞ピチピチ系の人が多いのかな。