今日は、ある方からのご質問をシェアさせていただきます。
今回のお話は、きっと、
- パートナーとの関係やご家族との関係でお悩み中の方
- 「この世は鏡」「内側に原因」「自分自身の内側の力がすべて、こことつながる」という概念には心の深い部分で惹かれている
- けれども、なかなか、スッキリしない時間が続いている
という方にとって「トリートメント」になるのではないかと思います。
トリートメント。
シャンプーでわしゃわしゃ〜と髪を洗ってたら、絡まっちゃって、トリートメント馴染ませるだけで、ツルツル〜。みたいな意味でのトリートメント、と言いました。
そして、今回の記事は(も?)、ワード的におそれが強く出るかもしれない、つまり「決めつけ、レッテル(自我のはたらきです)」が、生じる方が多いかもしれません。
でも、これも、ずっとお伝えしてきていますが、この「自分と向き合うこと、愛すること、鏡、内側が原因、現実創造」というのは、この思い込み・決めつけ・レッテル(自我のはたらきです)の取り消しでもあります。
思い込み・決めつけ・レッテルも、おそれも、いかにご自分をゆるして、愛しているか、ノージャッジに戻っているか、というところにかかっています。
つまり、内観していないと(エゴをみていないと)、エゴが隠したおそれや不足の信念などは、保たれたままになるのです。
おそれが出てきてくれた場合は、手放すチャンスです。
おそれは無ですから、「自分のもの」とせずに、光に捧げます。そしたら、光に戻ります。
いただいたご質問はこちらです(前後の文章はカットさせていただいております)
『親密感の恐れ』『回避型依存』などの男性は、一般的に共依存になる、や、付き合うのは大変だ、Ringoさんは、祈りや、鏡の法則、自愛を教えてくださっていますが、こういった心理学的な方面のこと、どう捉えていらっしゃいますか?
わたしは、「心理学とスピリチュアリティ(鏡、内側に原因等)」はわけて、捉えるようにしています。
目指す頂点はひとつだけれども、登山口はたくさんあって、道も違う、とよく言われるのですが、まさにそれ、です。
そういう意味で、わけて捉えるように、しています。
そして、現実創造・スピリチュアリティとしての「この世は鏡」「内側に原因」「自身の内側がすべて」ということをわたしは受け入れていていますので、「このケースだけは特別だ」と特別扱いしないようにしています。特別視こそが、自我の見方だからです。その上で、内観します。自分をゆるします。祈ります。
心理学でもスピリチュアルでも宗教でもなんでも、やはり、それがどう使われているか、一人ひとりがどのように捉えるか、ということもあると思います。
ここでは、やはり「自分を愛する=全体を愛する」「あなた=わたし」「内なる幸せが外側(人や出来事)に反映される」からブレたくないので、
わたしは、こまめに、このことを自分のなかで思い出し続けるように、しています。
そして、「自分を愛する=全体を愛する」「(自分も含めた)全員一致の幸せ」は、自分の管轄ではなく、神の管轄なので、「わたしができる、わたしが奇跡を起こす」などとせず、祈り続けています。
それはさておき、いろんなもの(特に目に見えない心・想念・霊的なことについて)をまぜこぜに考えないほうが、混乱しなくて、すむと思うのです。
混ぜるな危険。「危険」までいく場合といかない場合はあるかもしれませんが、まわり道しなくて済みます。
酸素系洗剤と、塩素系洗剤の、どちらの方が優っていて、劣っているか?
どちらの言ってることの方が正しいのか?
塩素のいう通りにすべきなのか?
家から酸素系洗剤は追い出して、塩素系に統一すべきなのか?
とかではなくて、ただ、わけます。
酸素は酸素、塩素は塩素、どちらも等しく真理です。しかし、混ぜません。という感じです。
以前「インターネットやSNSをみすぎていると魔界に・・・」みたいな話を書きましたが、あれもインターネットやSNS自体が悪いとかではなくて、
その時間が長すぎたり沼ったりすると、たくさんの情報を取り入れているうちに、無意識的に「塩素系も酸素系もシャンプーもリンスもトリートメントも」となって、混沌を作り出す場合があるからです。
混ぜない上でも、いつの間にか混沌とならない上でも、内側の感覚を大切にする、内なる神とつながる、自分と大切に向き合う、自分軸・・・というのは、大事だと思います。
内側には愛だけがあります。
しかし、自我は「内側は恐ろしいことになっているから見るな」といいます。
確かに、内観したり、相手に投影したものを見ようとするとき、見たくないもの、受け入れたくないものがあるように感じられますが、それは、自我によって、自我のトリックによって、自分が自分にジャッジしているだけのことで、
神様は、神聖な存在は、天使は、ハイヤーセルフは、すべてそのままを愛してる、のです。
自我によって、自分が自分のことを、愛せない、ゆるせないだけ、です。
「いいや、でも、昔〇〇さんもわたしのこと否定した」というのは、自我が「ほら、見てみよ。だから自分は愛にふさわしくないし、ゆるされない、有罪なのだ」と、自己証明したいだけです。
神様は、どんな自分のことも、ただそのままを慈しみ、愛してくれています。無条件に、です。「〇〇したから愛する」とかではないのです。できる自分も、できない自分も、そのままが尊いと言います。その鼓動は、神から自分への感謝の合図。
自我の声と、内なる神の声、どちらを受け入れたいか?と、自分に、いつも、問いかけていたいです。