メソッド。
理論、〇〇論。
〇〇療法。
教え。
わたしも、長年、いくつかのものを、試してきました。
そして、去年の今頃だったか、一旦、すべてを手放しました。導きでした。
今、思うのは、ほんとうに、なんでもありだということ。
けれどもというか、だからこそというか、だからこそ「効果があるかないか」とか「正しいか間違いか」とかいうよりも、それがその人にとって、自分自身の癒しだったり、心からの幸せだったりに、つながっていることが大切だと思いました。
自分自身の癒しや幸せにつながるということは、まわりの人や自分以外の人の癒しや幸せにつながっているということです。
内側が満たされていることを知る人は、外側(現実的、物理的にも)満たされていく。
不満がない状況だから不満を言わないのではなくて、不満という内側の原因がないので、不満のない結果を受け取っている。
そして、外側に正解を探し求めがちだという人が、あるとき、内側と深くつながるようになったり、
「教典」を軸にして、「師」に心をあずけていた人は、あるとき、一番そばにいてくれる、目の前の人を、ただ愛することの大切さ、という、小さくて大きなことに気づいたりする。
わたしも、長年、いくつかのものを、試してきました。
そして、去年の今頃だったか、一旦、すべてを手放しました。
と書きましたが、今思えば、すべて良かったのです。
そして、わたしが試さなかったものも、ある人にとっては、きっととても良いのでしょう、と思うのです。
教えとの出会いも、「引き寄せの法則」。
占いや鑑定も、「鏡」。
昔、救いは向こうから現れる、みたいなことを聞いたことがありましたが、
内観というのは、安心して「ヘドロ」をみていくようなものでもありますが、その「ヘドロ」は自分ではなく、自我であり、自我が悪いというわけでもありません。
しかし、「ヘドロ」を隠していると、幻滅されるのではないかという恐怖につながることがあります。
なんかある、というのを、うっすら分かりながら、隠していると、その脅威は増します。モヤモヤするかもしれないし、ざわざわするかもしれません。そうこうしていると「なんでわたしがこんな目に遭うの?」ということが起きるかもしれません。
「ヘドロ」を自分だと強く強く思い込んでいると、あるとき「本当の自分は愛そのもの、神に愛され守られている」という言葉に出会うかもしれません。
「ヘドロ」にとってみれば、「ヘドロというのは勘違いで、愛そのものなのです」などという言葉は、気持ち悪く聞こえる場合がありますが、ヘドロは無で、本当の自分は愛そのもの、愛の表現そのものです。
愛の表現そのものを、「わたしはヘドロだ!」あるいは「ヘドロを克服して、こんなにすごい人間になった!」などの大騒ぎを起こして、邪魔することが、ありませんように、という感じです。
なんでもいいので、これだと思えるものをつづけていると、あるとき真理・原理原則にたどり着くのだと思います。
内側に原因、投影の取り消し、は、かなり、直通、妥協なし、時間のショートカット、最終的には時間の消去です。自我にとっては、かなりの危機的状況、だと思います。
ありとあらゆる「確か」だと思っていたものがゆらぎ、わかると思い込んでいたところにわからないがやってきて、ずっと存在していると信じてきたおそれさえ無であることを見破ったとき、広がるのは静寂です。
無に力を与えていたのは自分ですが、これをもしかしたら、罪だと思い込み、恐れていたのかもしれません。
ずっと離れたことのない、求めるすべてそのものと、ひとつだったことに戻るのです。
もじゃもじゃとした、ジャングルのようなところで迷子になりかけていたけれど、あるとき、全体像を体験し、全体像を体験したからといって、ジャングルはジャングルだけど、恐ろしい遭難の物語から、平和で幸せな物語として生きていける、そのように選択することができることを知る。
「恐ろしい遭難物語時代」の護身術的心の習慣や、刺激を待ち構える癖などは、意味がなくなりますが、平和で幸せな物語というのは、奇跡で溢れています。本当に、ただ安心して魂に従っていればいいことを、神は現実を使って見せてくれるのです。