あけましておめでとうございます。
年末実家に帰ったら、父が録画番組を一緒に見ようと声をかけてくれました。
父はよく「これは娘が好きに違いない」と思うものを、録画して、わたしに見せてくれます。今回も、そんな感じでした。
今回の番組は「植物同士がコミュニケーションをとっていることが、研究で判明した(しつつある)」という内容でした。研究自体は10年くらい前のものだった、と思います。
番組名と、正確な内容をメモしておけばよかった・・・誤情報混じってたらまずい・・・ということで、聞き流してください。
海外、そして、日本の生態学者さんたちが、特殊な最新機器(?)で研究したところ、森の植物たち(木とか)はコミュニケーションをとっていることがわかり、しかも助け合っている、というような内容でした。
「しかも助け合っている」というのは「生き残るために競い合っているのではなく、助け合っている」という意味です。
最後まで見終わったところで、父から感想を求められたので「この内容、全部知ってた、知ってたというか、そういうものだと思っていた。競い合っていると思っている人もいることを知り、へぇと思った」と答えました。「競い合ってる」というのは、ダーヴィン?進化論?のことでしょうか。。。
そして、科学者たちの研究は「その”なんとなくそう”、というところを、この世界に翻訳している」というように見えました。
「なぜ知ってたのか?」と聞かれたので「そういうものだと思ってた。というか、みんなそう思ってると思い込んでた」と答えました。
たとえばですが、森全体があったとき、その全体がつながって、わたしたちが「個別」と見える植物同士たちは、いつも話し合って、与え合って、助け合っている。極端にいうと、森の端っこにある木が病になったとき、その木の対極にある木も反応して、森全体が、病になった木を助けに行く・・・というような感じを感じていたのです(しかし、これはわたしの中のイメージで、研究結果とは何も関係がない話なので、科学的根拠があるかどうかは知りませんよ)
わたしの中では「ただ、そういうものだと思っていたし、みんなそう思ってるというか、そういうものだと思ってると思い込んでた」だったのです。
そして、これを父に話したら「その、自分の感じていることをブログに書いたら?この話は書いた?」と聞かれました。
この話を過去に書いたかどうかは忘れたし、この森全体がコミュニケーションをとってる話は「みんなそう思ってるだろう(みんなにとっての常識)」と、思いもしないほど、普通のことだったので、「よし、この森の話は、自分が感じていることで、ブログに書こう」とは、なかなか思わないよな、と思いました。
けれども、こんなふうに、誰かとのコミュニケーションがあるから、感じていたことに気づき、ブログを書こうと思う。
植物は、草木は、森全体は、ただ、いのちに身を委ねている。そのいのちを、完全に信頼している。
きっと、なんの不満も持っていないに違いない。
虫から葉っぱを食べられたときも「ああ、もう一巻の終わりだ、神はなぜわたしをこんなひどい目に遭わせるのか」などとは、思わないに違いない。
その代わりに、早急に「今自分が虫から食べられている」ということをまわりに知らせ、お隣さんを守り、鳥を呼ぶ。
そうしながら、人間の何倍もの寿命を生きる。「寿命が長いこと=いいこと・優であること」などということはあり得ませんが、この世を心地よく感じている術を知っているように見えたのです。
・・・ということを、書いていたら、ある本に書いてあったことを思い出しました。
「若木は別に何かになりたいなんて望んではいませんよ。若木は全体と一つであって、その全体性が若木を通じて活動しているんです。『野の百合がどう育つかを見てごらん』とイエスは言いました。『働きもせず、紡ぎもしない。しかし栄華をきわめたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった』。
全体性ー生命ーは若木が大きな木になることを望んでいるとは言えるかもしれないが、若木は自分と生命を別物だとは感じていないし、だから、自分以外の何者かになりたいとも望んでいませんよ。生命が望むことと一体なんです。だから心配もなければストレスもない。・・・
イエスは、神はたった一つの花でさえこれほど美しく着飾らせてくれる、ましてあなた方ならどれほど美しく着飾らせてくれることか、と言いました・・・
引用元:エックハルト・トール「ニューアース」吉田利子(訳)288-289ページ
この全体性、言い換えると、神と神の子はひとつである、ということを思い出すことで奇跡は受け取れます。
なので「わたしは、虫に喰われた。(イライラ、怯え、怒り、おそれ、復讐心、恨み)。この虫をどこかへ追い出したい」と思っている場合、このことを、正直に、内観してみるならば、「わたしが虫に喰われないのであればそれでいい。あっちの木が喰われても構わない」だったり「この虫は死ねばいい、自分さえ生き残れればそれでいい」ということを、隠し持っていることになります。
このような全体性に欠ける視座を選択する場合、奇跡を拒否しているのと同じことになるのです。
これは「悪事をやめ、欲望も不満も禁止し、聖人君子になりましょう」という話でも「悪事をしていてもいい」という話でも、まったくありません。というか、このような発想は、「コンビニに自動精算機が導入されたのは、コンビニがわたしのことを汚れていると思ってる証に違いない」というほどの、早合点、勘違いです。
そして、わたしたちは、このような早合点、完全なる勘違い、および、被害妄想をするもの、なのです。その被害妄想を脅威に感じ、いい子を演じ、隠したところで、なにもならないのです。でもある意味、わたしたちみんなそう。
だから、日々、勘違い、信じ込み、妄想を、捧げるのです。
なので「(今は微妙なので)いい人間になる」とかではなくて、そもそも「わたし=人間、肉体、個体、個別性」という信じ込みを超えて、狭い見方を見つけ次第、その信念価値観を喜んで手放し、「自分が考えているものよりはるかに大きなもの」を歓迎していくということでもあります。
自分自身の想念と信念に、想像を絶する力があるのです。