「都合よく扱われる恋愛、関係性」について書いてみたいと思います。
今、現在進行形でそうだ、という方。
今は問題ないはずなのに「また都合よく扱われるのではないか?」という不安やおそれが出てくることがあるという方。
過去の関係性を思い出して「都合よく扱われたことへの怒り」が出てくるという方。
色々あると思います。
裁き・罰という自己呪縛からの解放の話、同時に、内側に原因という目的でこれを書きます。
まず「都合よく扱われる」という表現を見ての通り、「都合よく扱われた」と言いたくなった時点で、外側に原因・他責の状態であることを、認める・受け入れる必要があります。
「〜された(そして、それによって、わたしは傷ついた、酷い目にあった、悲しい思いをした、辛い思いをした、困っている等々)」という場合は、相手が加害者、自分は被害者、となっています。
ここで思い出したいのは「なにをどう見るかは自分次第である」「自分がこれを作った」ということです。これは、この時点で、しっくりきている必要はありません。ある場合においては無意識下の話でもあるので、しっくりこない場合は「そうらしいぞ」と、何度も思い出すだけでも十分です。
「なにをどう見るかは自分次第である」「自分がこれを作った」と受け入れることは、「別の見方で見ることもできる」「そうではない、自分が想像もできない素晴らしい何かを自分次第で受け取ることもできる」ということです。
「外側に影響力があって、そのせいでわたしは・・・」という思いを持ち続ける場合、わたしたちは「あの過去のせい、過去のあの人でわたしの人生は」だったり「恐ろしい未来に備えて、不安を抱えつつ、怯えながら暮らす」というようなことになるのです。
「都合よく扱われる」ということを言い換えると、「(他者の、外側の)言いなりになっている」「外側基準、他者基準」状態である、ということが言えます。
自分の思いや都合などは無視されて、相手の言いなりになっているような、蔑ろにされているような、感じ。
ここで「都合よく扱われてる感じもするけど、でも、自分の意見もはっきり伝えるようにしている」という方もいらっしゃるでしょう。
この場合は、パートナーだけでなく、
「それ以外の人、あるいは、常識や外側の価値観信念を丸ごと取り入れている」
「基準・正解にしていて、その正解通りに生きようとしてきた」
というところも見てみると、いいかもしれません。
たとえば、
・ご両親、祖父母などご家族。自分を育ててくれた人。幼少期から深く関わってきた人の価値観信念をそのまま取り入れて、「軸」にしている。言うことをよく聞いている、聞いていた
・外側(誰かや社会の価値観信念言ってること)に「正解」があると思っている状態
などです。
そしてさらに、
(A)「言いなり」「相手が言った通りにする」という場合
(B)あるいは「権威的な人」「社会の平均値」などを「軸、基準」にした上で、それに対して反発している場合
というのがあると思います。
(A)の場合は、たとえばでいうと、優等生タイプです。小さい頃、お母さんや先生たちのいうことを、よく聞く、いい子タイプ。我慢をしてでも、言いつけを守ろう、とする感じのところもあるかもしれません。
(なので、これが「悪い」とか「責められるべきこと」という話ではないのです)
「相手にとってのいい子でいること」を、まだ持ち続けたいかどうか?というだけのことで、それは自分で選べることである、ということです。
(B)の場合は、優等生タイプの逆、不良タイプ、問題児タイプ、あるいは、「自分は自由に生きてきた」、ということもあるかもしれません。
なので、一見「言いなり」ではないように見えるかもしれませんが、たとえば「学校に反抗して、その真逆をやろうとする」というような場合、強く強く「学校の先生たちの言っていること」を意識している、という点では(A)と同じです。
そして、(B)の場合も、「この人は!」という人や思想を見つけると、「丸ごと信じ込む、忠誠心がある、従順」になったりするものです。
今思い浮かんだこと、思い出したこととして、昔見た「不良高校生の学園青春映画」があります。主演の高校生たちは親の言うことも先生の言うことも聞かず、授業はサボり、授業中も屋上でお菓子食べて遊んでる、みたいな感じなのですが、自分のボス的存在に対してだけは、九十度でお辞儀、まるで執事みたいな感じ・・・です(笑)
そういう意味で、「パッと見」は(A)とは真逆かもしれませんが、自分の内側の真ん中に、自分ではない誰かを軸として、基準として、丸ごと迎え入れちゃってる、と言うところで、同じなのです。
わたしには、同じにしか、見えません。
ここまで読んで、(A)と(B)、どちらも、心当たりがある、と気づく方も、いらっしゃるかもしれません。どちらも、同じですので、ある意味、その通りです。
ちなみに、わたしは、小さい頃は(A)、小学生くらいから(B)、どちらも経験がありますが、どちらかといえば、(B)の傾向の方が強かったかも、と言う感じです。(不登校引きこもりも、反抗反発の一種です)
それで、こんなふうに「自分の内側の真ん中に、自分ではない誰かや何かを軸として、基準として、丸ごと迎え入れちゃってる」と言うのを、外側基準、他人軸、と言います。
外側基準を言い換えると「外側に原因があるとみている(思い込んでいる)」と言うことです。
そして、これは、ほとんどの場合がそう、と言う話で言うと、その内側の真ん中にいる誰かというのは、母親だったり、父親だったりして、母親を見るのと同じ感情で、パートナーを見ていたということに気づく方もいらっしゃいます。
「これを自分が作った」と認めると言うことは、そうではない見方・経験も受け取ることができる、と言うことです。
なので、もともと「都合よく扱われない人」からすると、「都合よく扱われている人のお悩み」と言うのは「なぜ、そんな一緒にいて嫌な思いになる人と一緒にいるの?てゆーか、そもそも好きになるの?」と言う話になるということも、あるかもしれません。
同じように「都合よく扱われる人」「過去の傷の感情がそのままの人」からすると「まぁ、それは酷い話だわ。本当に、酷い人ね」となるかもしれません。
でも、ここでは、もっと、深いところにまで、降りていきたいと思うのです。外側に原因をおかず、内側に原因があった、というギフトを受け取るところまで、降りていきたいのです。
さて、ここまで読んでみて、いかがでしょうか。
※ここで、自分ではない誰か他の人のことに当てはめて、その人のことを分析しようとしている場合は、罠にハマってます。。。
じゃあどうすればいいの?と言う声が聞こえてきそうなのですが、まずは、この時点で重要なのは、このことについて、認めて受け入れること。ただ、そうだったことに、気づくこと、です。
今の感情は、過去誰かに対して抱いた感情と同じだった、と気づくだけで浄化される、ということもあるし、
浮かび上がってくる、さまざまな感情や思いや価値観や信念を、一つひとつ、丁寧に繊細に見ていくだけで浄化されるということもあります。
そんなふうに、深く、深く、じっくりと、内側を見つめていくことがまず大事です。そして、どんな自分も、自分を認めて受け入れること、なぜならば、神(本当の無条件の愛)はどんな自分も等しく愛しているからです。
その神から自分にそうするように自分も自分にそうします、ということは自分を愛するということで、自分を愛するということは全体と愛するということで、愛するということは愛されるということです。
このように、自分のこのような思いを見つめていくうちに、自分の思いや信念や価値観が、周囲だけでなく、自分も傷つけていた、それに自分が苦しんでいた、ということが、心から感じられるようになってきます。
あるときは、自然と手放す(解放する)ことになりますし、あるときは、何度も意識的に選択し直す、手放す、ということもあります。
「言いなりになる(コントロールを望む:コントロールされる・コントロールする)」というのを、まだ、どこかで望んでいるかも、という場合は、それを認めることが大事です。
自分に正直になることは、内観する上で、欠かせないことです。
「コントロールを望む」ということをただ認める、ということは、確かに「コントロールする現実、される現実、誰かに都合よく扱われる現実」などを作りますが、それでも、まだ、どこかで、それを望んでいるという場合は、自分に正直になる方が、100年以上の時間の節約になります。