自分でやろうとしない、というのは、自我と同一化した状態でしない、ということです。
わたしたちが、なにか問題や悩み執着のような願いがあるときというのは、自我と同一化したまま見ているとき、です。
というか、このことを思い出すだけでも「時短」になります。
では、自分ひとりでしようとせずに、どうするか?というと、
そこに誰の内側にも存在する神、つまり、「無条件の愛、完璧な愛、完璧な叡智、聖なる存在」、「自分よりもはるかに大きな存在」に入ってきてもらうのです。
ここで、サバイバーという場合や、「できる人」などは、自分でなんとかすることや、自己完結が心の習慣になっている場合があるので、練習です。
あるいは「できる人、賢い人、そうありたい人」の場合、自我の働きとしてですが、「自分よりもはるかに大きな存在である神」にイラっとしてしまう、そんなのゆるせない、自分が一番できると言いたい、となることもあります。
この場合は、そのままでいいよと愛や受容や時間をかけるか、サレンダーするか(完璧な愛、奇跡、癒しに降参する)、です。
わたしは「完璧にしなければならない」の癖がなかなか強かったので、それに気づいてからは、ますます、心の練習です笑
完璧な神がすべてしてくださることを、わたしは、ただただ受け取っていること、守られていることに感謝、です。
わたしでもわかるように、完璧な道を開いてくださって、導いてくださってることに、感謝。
「完璧にしなければならない」とは「神にならなければならない(わたしは人間だけど)」と言ってるようなもので、これは、かなりキツイものです。。。
たとえば「目の前の人にイライラする」というときも、「自我のめがね(分離、恐れのめがね)」で見ているから、そこでいくら考えても、「これはこうに決まってる」など盲点になってる思い込みがどうしてもあるので、そのままいくら頑張ったところで抜け出せないのは当然です。
ここで我慢したり、相手を分析することによってなんとか自分の心をなだめようとしても、同じような人・問題は出てくるものです。
しかも「一番大事な人」にそれを見てしまう、ということはよくあることです。たとえば「パートナーと同棲しはじめてから」それを、相手にみる、ということは、よくあること、そういうもの、という感じです。
なぜなら、メガネをかけてるのは、自分だからです。
しかし、相手を責めたいようなときというのは、自分を責めているときなのです。「自分を責めてる」こっちが重要な方なのです。
※これは、無自覚・無意識の方もいらっしゃるかもしれませんが、「自分が自分に」責めてる自分・批判してる自分ダメ出ししてる自分・禁止してる自分を、相手に見ています。
ここで、神に入ってきてもらう・・・
いや、正確に言えば、神様はずっと一緒にいてくれていて、わたしたち側が「入ってこないで!(プンプン)」となってる状態なので、
こちらから、ただ、助けを求める。
必死じゃなくて、いいのです。すがりつく感じなどは、必要ではないのです。(そうであっても悪いとかはないです)
無条件の愛を、ここでは神様、とも呼んでいる、という感じなので、「雲の上で霞を食べているお爺さん」の話をしているわけではありません。
この無条件の愛とは、「肉体である人間」には、不可能なのです。
相手を「肉体である人間」と決めてみている上で、相手に無条件の愛を求めるのは、
相手を十字架にかけた上で「さあ自由に飛び回ってごらんなさい」と言ってるのと同じような感じかもしれないです。
そして、意外と、無意識的に、このパターンを持っていて、気づいてない、という場合もあります。
この場合も、やはり、内なる神に、求めまくるのです。
相手に求めてたものを、5分だけでいいので脇に置いて(後でかき集めたいならそれでいいので笑)
相手に求めていたものを、ただ、神に求める。
これを、続けます。
その中で、日々過ごしていく中で、直感やひらめき、シンクロなどがあれば、受け取ります。
同じメッセージがやたらと届く、気になる、というときは、それを受け取ってみます。
内観のとき、心の働き、導き、ガイドを感じられることも、あると思います。それは、どんどん、受け取っていきます。
これを、続けていると、あるとき、必ず、
神に求めたものは、必ず与えてくれる、ということに、気づくというか、知るというか、体験するときがきます。
もちろん、神は、わたしたちが、まだまだこの世界に人間として生きていることも、知っていますから、
わたしたちが、そうとわかる形で、答えてくれてることを、受け取るときがきます。
本当に、不思議で。
ただ外側に求めてたときは、「ない」「うまくいかない」だったのに。
内側に求めることにシフトしていくと、神は外側を通して、この世界での体験を通して、与えてくれます。
「投影(鏡)」は、優しく、取り消されていって(自分で取り消すのじゃなくて、神聖な存在によって取り消されます)
内なる神の鏡。神の光が、延長し、広がっていくことをこの世界にみる、鏡。
それが、第二ステージというか、ほんとうの、鏡、奇跡、そしてそして、創造、愛の表現を経験していく日々です。