ありのままの輝きが放たれるままのとき

相手を分析してしまうとき。

誰かを批判してしまうとき。

相手の裏を読んで、相手を神の子だと見れないとき。

そして。

相手からの褒め言葉を素直に受け取れないとき。

誰かから褒められても、認められても、心から喜べないとき。

誰かから褒められても、認められても、何度も自分で否定して打ち消してしまうとき。

もしかしたら、無意識的に、そうやって打ち消してきたから、誰からも褒められていない、認められない、と感じていただけかもしれない。

 

 

そんなふうに、相手を欠けた存在、不完全な存在だと見る、その上で裏を読もうとする、というのは、

そのまま、自分が自分を見ているように(そう信じているように)、相手をそう見ているという投影であって、

もしそのことに気づけて、認めることができたなら、それだけで、大きな一歩なんですよね。

それに気づけない、いや、気づかないようにしている、と言うことは、よくあることです。練習によって、癒しを受け取っていく中で、だんだんなくなってきます。

 

 

相手を欠けた存在、不完全な存在だと見る、その上で裏を読もうとすることを、

もうそれを手放したい、と思えたなら、神にゆだねて、

相手の中にある完璧な輝きに感謝していきます。

相手の中にある完璧な輝き、ありのままを認められること。

相手の中にこのことを見たいと心から思えて、祈るとき、それはそのまま自分の中の完璧な輝きを認めている、ということになります。

 

 

「相手はわたしを愛してくれない」、つまり、「相手には愛がない」と、信じそうになるとき、

それは自分には愛がない、足りていない、と信じ込んでいるだけであって、それは真実ではありません。

 

 

その真実ではない信念を見つけて、その信念から解放されて、つまり、そのおそれ自体が無であったということを受け取って、

その信念から解放された体験を誰かと受け取るとき、「奇跡」という言葉を思い出します。

 

 

 

人と出会う度に「この方を信頼させてください」と大いなる存在に祈ることは、思いもよらない奇跡を受け取ることになりますが、

相手に対して、怒られるのが怖い、ジャッジされるのではないかと怖い、嫌われるのが怖い、褒め言葉を素直に受け取れない、相手の輝きや愛を受け取れない、というご相談を聞くたびに、

思い浮かぶのが「この方を信頼させてください」の祈りでもあります。

ランダムに(つまり自分のジャッジで特別視や例外を設けずに)、いろんな人に、この祈りをたくさんするだけでも、見える景色が変わってきます。

 

 

もちろん、自分の内側をよく見て、こんがらがった価値観や信念を手放すのはとても大事なのですが、それも難しく感じられるようなとき、

いろんな人と会うたびに「この方を信頼させてください」と、祈ってみると、肉体を超えたところで、すべてから助けられ、受け取っていたこと、自分はそのつながりの中にあることを経験して、

そして、自分自身の内なる神、愛する力、認める力、神聖さへの信頼も深まっていきます。

 

 

相手を自我・・・嫌いな人だとか、特別な人だとか、「わたしの〇〇」だとか、見ているとき、苦しくなるのは、閉じ込められたようになるのは、自分です。

そんなふうに見ていると、自分を偽って偽って、ダメな自分を隠して、頑張って「できない人からできる人」になろうとして、でも、そんなことは無意味だから、消耗ばかりしてしまって、心が疲れてしまいます。

なぜ無意味かというと、「今のままじゃダメな自分」というのは自我の囁きであって、

ほんとうは、ありのままで素晴らしい、できてもできなくても尊いからです。

心の目で、相手を神の子とみせてもらうとき、本当の意味での信頼で繋がるとき、同時に、心の扉を開いて、ありのままの輝きが放たれるままにできるときです。

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