ここ数日、遠くへ出張・研修に行ってました。
今日帰ってきました。
メールのお返事が、とても遅くなってしまった方が数名いらっしゃって、申し訳ございません。
今度から臨時休業日をちゃんと掲載するようにしよう、と思いました。
定期的に出席するようにしているヒーリングの学びにも参加してきました。
わかってないことが、わかること。
何も知らないことの、素晴らしさ。
間違っている、喜び。
ここ数年?でこの感覚は、どんどん深く、味わい深く、なっていくような、そんな感じです。
癒すことというのは、癒やされるということで、
癒やされるということは、癒すということで、
するとされるは一つのことです。
このことは、いわゆる「頭の理解、頭の知識」としてでもいいので、何度でも何度でも思い出したい超重要な法則です。
このような「へ???」というような法則を、何度も何度もただ思い出していくことが、
とても大切なことで、「で???」から「!!!(気づき・解放・奇跡)」に欠かせないことでもあるかもしれませんね。
念のため書きますが、例え「癒す側」であったとしても「この個人のわたしが癒す」のではもちろんありません。
誰が癒すのか?それは、大いなる何か、完璧な何か、神聖な何か、です。
だから「癒し損ねる」ということが、ないのです。
このように書くと、もしかしたら、自我が「じゃあ(自我の)期待通りになるということかな」というかもしれませんが、
自我の計画は取り消されて、ただただ、完璧な幸せが現れてしまうのです。
内側的にも、そして、その反映として外側的にも、というだけです。
それで、勉強会では、練習で、いわゆる「癒す側」と「癒やされる側」の両方をたくさんしてきました。
どこへ行っても、学ぶことの軸は、わたしには同じに感じられて、
けれども、それは、まるで「ゼロが無限である」というような、奥深さがあって、
学べば学ぶほど、わかってないことがわかるというか、
噛めば噛むほど美味しいなんとか、みたいな感じです。
自分のエゴを退け続けるって、こんなにも素晴らしいのか、という感じです。
自分で判断しないって、すごく楽なだけでなく、鮮やかな神業が連鎖していく、というシンクロでした。
本当に楽にしていていい、自分の価値観・自分の歴史・自分ルールなどを持ち出すと、誰だって寛ぐことは不可能です。
もしかすると、このように自分チョイスの法律を持ち出したところで、「戦闘ホルモン」とか「依存症ホルモン」とか「ストレスホルモン」的なものが分泌されて(この辺りの詳しいことはわかりませんが)、
一時的な快感や興奮や万能感を得られる、
ということはあるかもしれません。
一時的な快感や興奮や万能感には、必ず「揺り戻し」が必ずあるのです。わたしにも身に覚えはたくさんあります。笑
自分で判断しないというのは、ただ、楽にしていていいですよ、幸せをどうぞ、という感じです。
ヒーリングな数日間で、頭がぜんぜん回りません。
上に、
例え「癒す側」であったとしても「この個人のわたしが癒す」のではもちろんありません、
と書きましたが、
特にガイダンスクラスでは、この辺り・・・
「個のわたしが為すことではないことを経験する」
を皆さんと深めていきたいと思います。
個人のわたしが為すこと、というのは、例えば、「今のままでは完璧とはいえないから、頑張ってなんとかしなければならない」「問題解決策を探し当てて、なんとかしなければならない」だとしたら、
このわたしが為すことではないこと、というのは、例えば「奇跡」「してもいいし、しなくてもいい、今のまま、そのままでいい」なのです。