「これはほんとうのわたしじゃない」

ゆるすというのは、どうしても、エゴの解釈だと、

(1)あなたは悪いことをしたけれども、わたしはあなたよりも心が広いので、ゆるしてあげます

とか

(2)わたしも悪いことをしましたが、あなたも悪いことをしました。だから、喧嘩両成敗で水に流してなかったことにしましょう

・・・ということになる。

(1)は、どうみても傲慢だし、

(2)は、一見、「あなたもわたしも同じ」のように見えるのだけれども、「罪悪」というものを信じて、責めているし、この場合は、こっそりと「わたしの罪よりあなたの罪の方が大きい」ということになりがちです。

(わたしは長い間(2)にハマっていました)

 

 

エゴというのは、ゆるす、ということができない、ともいえます。

けれども、どんなに、エゴと同一化していたとしても、「ほんとうのわたし」はエゴじゃない。「ほんとうのあなた」もエゴじゃない。

ゆるす、というのは、罪がどこにもなかったという解放のこと、みたいな感じだと、感じています。

そして、これは、エゴと同一化した状態で(=ゆるせない誰か、裁きたい誰か、コントロールしたい誰かがいる状態で)、

「エゴと同一化したわたしがゆるす」というのは不可能なので、それを認めて、委ねると、気づき、解放が、もたらされることになります。

あなたは、何も問題がなかった。あなたは、愛そのものだった。あなたは、そのままでよかった。わたしは、とてつもない幸せの中にいた、という気づき。

 

 

どうしても、ゆるせない人、どうしても裁きたくなる人がいるとします。

例えば「自己中心的で、自分の意見を押し付けてきて、まわりのことなど思いやらない人」がゆるせないと感じているとします。

(1)これは、相手が問題なのではなく、自分の心の中が映し出されている、らしいぞ、ということを思い出します。

(2)自分にもそういうところがあったかどうかを振り返ると、確かにあった、ということに気づきます。

このとき、同時に、そのような自分「自己中心的で、自分の意見を押し付けてきて、まわりのことなど思い遣っていなかった自分」を自分が責めていたことに気づきます。

大事なのは、ここで、この自責(罪悪感)を癒す、ということです。

とてもよくある誤解(?)で「自己中心的で、自分の意見を押し付けてきて、まわりのことなど思い遣っていなかった自分」を反省して、自分の意見を押し付けるのはやめよう、相手のことを思いやるようにしよう、とする、ということがありますが、そうではなくて、

この、隠し持っていた自責、罪悪感の部分を癒す、ということです。

そして、このとき、この、

「自己中心的で、自分の意見を押し付けてきて、まわりのことなど思いやらない自分」というのは、本当は、わたしじゃなかった、ということです。

「自己中心的で、自分の意見を押し付けてきて、まわりのことなど思いやらない自分」これは、わたしじゃない。ほんとうの、わたしじゃない。

けれども、これを、ずっと、ほんとうのわたしだと思って、心の中で自分を責めてきた。

けれども、これは、ほんとうの、わたしじゃない。

ほんとうのわたしは、愛そのものである。

「自分だと思ってた偽の自分」を相手に映して、相手を責めて、憎悪して、嫌悪してきたけれども、

それは、ほんとうのわたしじゃない。

ほんとうのわたしは、愛そのものである。

・・・ということを、受け入れる、ということです。

 

 

ちなみに、「自己中心的で、自分の意見を押し付けてきて、まわりのことなど思いやらない自分」←これが自分だと思い込むこと、自分が自分にそう言い聞かせることが、自分が自分を欺いている、ということです。

そんなふうにして、自分が自分を欺いていることが、自分の心を苦しめている、ということで、これを手放していくことで、心は自然と、穏やかに、満たされて、本来の状態に戻っていく。

これは、ほんとうのわたしじゃない。ほんとうの自分は愛そのものである、ということを、何度も、思い出していく。

間違ったまま思い込んでしまっている自分に、何度も何度も、教えてあげる。

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