カルマの法則・・・というのも「どの視点から見るか?」によって、あるといえばあるし、ないといえばない、となる。
でも「カルマ」というと、
過去生やご先祖様など「まるで、自分が知る由もないようなところの何かが影響して、自分が大変な思いをする」とか、
「カルマを解消するには、〇〇をしないといけない」とか、
ジャッジやおそれの道具になる場合もあるけれど、ジャッジやおそれの目的として、カルマを捉える必要はないです。
なんでもそうですが「目的は何か?」を自分ではっきりと決めることが大事です。
「ジャッジ、裁くこと、コントロールすること」が目的なら、結果も「ジャッジ、裁くこと、コントロールすること、おそれ」となります。
「癒し」「本来の自分自身を思い出すこと」が目的なのであれば、結果は「癒しを受け取る」「本来の自分自身を思い出す」となります。
それで、ここからは、わたしの昔の話なんだけれども。
自分のエゴを直視する、思考を書き出す、ということをしていたとき、
「自分が放ったことが、そのまま返ってきてる(例外なく)」ということに気づいたことがありました。
行動でしたことも、心の中だけで考え続けていたこと(信念)も、
「されて嫌なことを自分がしていた場合、それは、必ず、される、という形で、返ってくる」みたいな感じです。ブーメランみたいなイメージ。
わたしは、これに気づいたとき「綺麗にブーメランじゃん・・・」とハッとしたことを、今でも覚えています。
内側をよく見ていく、感じていく・・・ということを続けていくと、例えば「(過去生やご先祖様など)まるで、自分が知る由もないようなところの何かが影響して、こわい、謎」みたいな感覚もなくなってきます。
「自分の内側、心以外の何かが、自分に怖い影響を与えてくる」という見方・・・外側軸的というか他責的というか、そういう感じの見方が、どんどん薄くなってきます。
よくよく考えてみると、
相手をどのように扱うか?というのは、自分自身への扱い方、ですし、
自分自身を見るようにして、相手を見るので、
自分の中のボタンの掛け違いみたいなものが、掛け違ったままだと、
同じテーマを持つ出来事というのは、立場を入れ替えて起きるものです。
だから、自分の中のボタンが、綺麗にピタ〜っと、揃うと、それがそのまま鏡のようにして、この世界にも映し出される(奇跡)。
その奇跡を受け取る前に必要なことは、内観・浄化ですが、
例えば、以前のわたしのように「自分がされて嫌なことを、相手にしていた」という場合は、最初、罪悪感だったり、自責だったり、恥だったり、そういうものが出てきて、「キツイ」となる場合があります。
でも「自分がされて嫌なことを、相手にしていた」のは、エゴと同一化していたからであって、「それを自分がした」というよりも「エゴと同一化したことによるエゴの働き」みたいなもので、そのベースが罪悪感やおそれ、罪の意識なので、
内側が先、外側があと、で、「罪悪感が先、罪悪感を感じた行動があと」みたいな感じです。
でも、この「見たくない自分を見る」ということをしないと、その奥にある「本当の自分」と出会えないのです。
例えば、
・善行を積む
・自分がされて嫌なことはしない
・されて嬉しいことを相手にもする
と、よく言われていて、確かに行動は大事なのですが、
「こうしなければならない(行動リスト、タスク)」みたいな感じで、行動だけを大事にするというよりも、
心、内側と向き合うことで、行動は自然とついてくるもの、です。
だから「できない」というよりも、心は何を望むか?心は何を感じているか?を、
丁寧に、耳を澄ませていくこと、自分とよく話し合うことが、大事ですね。