それが「問題」に見えているとき。
自分が何か間違っているのであれば幸運で、何も間違っておらず正しいのであれば、そのほうが残酷。
「心からの幸せ、永続する幸せ」と呼べないのであれば、
自分が何か間違っている、
そのほうが幸いだし、実際はそう。
けれども、エゴは、どうしたって、自分が正しくありたい。
「ダメな自分」
「愛される価値がない自分」
「劣っている自分」
「劣っている自分」から見ると忌々しいあの人
「不安でいっぱいの未来」
「取り返しのつかないことをしてしまった過去」
「決して許されない自分」
「自分の」計画通りにしていれば安心安全・「自分が」思った通りになれば幸せ・・・というレール、
「自分の」計画通りではない、想定内ではないことは恐ろしいことに決まっている、
・・・こういったことについて、正しくありたい。正しいと思い込んでいる。
でも、これについて、自分が間違っていたら、どんなに幸せだろう。
「ダメな自分」という思い込みが、ただの間違い・勘違いだったら、どんなに幸せだろう。
「わたしの人生はかくかくしかじかだから、どうせ不幸に決まってる」というのが、ただの間違い・勘違いだったら、どんなに幸せだろう。
認めるとき、もしかしたら、勇気がいるかもしれない。
小さな子供が「ごめんね」といって、仲直りするときみたいに、ちょっと、照れくさいような、気恥ずかしいような、そんな気持ちになるかもしれない。
けれども、自分が作り上げて大事にしてきた被害妄想が、全て、文字通り妄想で、全部間違っていたら、どんなに幸せだろう。
問題が、問題と見えているということが間違っているということ。
でも、答えから見ていかないと、先に答えを受け入れておかないと、その視点がないと、
間違いはいつまで経っても、わからない。