モラハラ(わたしの体験談)と自由意志の話

わたしは、ずっと前に、

当時の職場だったり、当時のパートナーとの間で、いわゆる「わたしは、モラハラ被害者である」という体験をしたことがありました。

 

 

モラハラも、色々あるようで。

例えば、世間では、

(1)「それはモラハラですよ」という場合もあれば、

(2)「お互いがモラハラと言い合っている」ような場合もあり、

(3)第三者からすれば「それは、モラハラとは言いませんよ」というような場合もあります。

セッションでも、モラハラ(上記の3つに加え、自分がモラハラ加害者だと言われている)というご相談をいただくことは多いです。

 

 

わたしの場合は、自分が「(世にいう)モラハラ被害者」だと、自分がわかっていない(自分が自覚できていない)タイプで、

当時、別件(モラハラ以外の内容)でご相談していたはずの弁護士の方と心理カウンセラーの方に

「それはモラハラですよ、あなた被害者ですよ」

と指摘されて、「そうなんだ・・・」とわかったタイプでした。

 

 

そんな経緯がありましたが・・・というか、あったからこそ、言えることかもしれませんが、

「(いわゆる)モラハラ被害者」という経験、見方も、

わたしが作りました

ということです。

 

 

わたしが、そう見たくて、そう見ていた、

一つの見方であって、原因はわたしの内側にあったのです。

そのわたしの見方、物語を、聞いた弁護士さんや心理カウンセラーの方は、

その「わたしの見方」を反射するようにして、「指摘」してくれたのであり・・・。

 

 

弁護士さんも心理カウンセラーの方も、そしてその「(エゴのいう)モラハラ・加害者の方」の方たちも、神から派遣された天使でした。ただ、そうだった、のです。

 

 

わたしはずっと、自分が誰なのか、何なのかを忘れて、勘違いして、勘違いしたまま「自分とはこうだ」という物語を作り上げ、

自分が自分に対して

モラハラをしてきました(一人芝居)

 

 

自分が自分に対してモラハラ。

自分は正しい、と、どこまでも勘違いをして、

その「自分は正しいという勘違いから生まれている”正しさ”」を自分が自分に押し付けて、

苦しんできたのです。

判断(ジャッジメント)なんか、できるわけないのに、できると思い込むのが、エゴの思考ルートなのです。

 

 

わたしは、

(1)「それはモラハラですよ」という場合(自分が「被害者」だとわかってなかったタイプ)

だったのですが、

これは、つまり、怒りや悲しみ、痛み、被害者意識などを、

無視して、抑圧して、否認して、解離していた、ということで、

なので、この後は、その抑圧してきたものと向き合う期間というのもありました。

この向き合う期間というのは、非常にきついものでしたけれども、その非常にきつい期間に、

(今、あえて言語化するとするならば、比喩的といえるかもしれませんが)神と出会ったのです。

 

 

神、内なる神、無条件の愛、大いなる存在。

それが、確かに、わたしの中にあったからこそ、向き合えたし、たどり着けたのです。

そして、これは、わたしだけに可能だった、という話では、もちろんなくて、

全員そうなのです、望むか望まないか、だけなのです。

 

 

今、はっきりしているのは、

被害者も加害者も、コインの表裏一体であるということ。そこに、全く違いはなく、どちらも内面(というかエゴと同一化することによる妄想)において起きていること、ということ。

 

 

旧ブログから、セッションやクラスで、

人々は思ったよりもはるかに優しく

人生は思ったよりもはるかに素晴らしい

ということを、クライアントさんと、実感、体験を共有させていただいているのですが、

このどちらをも、わたしは、その、いわゆる過去にわたしの偏った見方で「モラハラ加害者」と見た、神からの派遣者から、このことを受けとったのです。

 

 

被害者のままでいること。

加害者のままでいること。

もしくは、

全く違った見方を受け入れること。

・・・どちらも選べます、という自由が与えられ、無条件の愛、無限の忍耐によって、見守られているのです。

恐れや罪悪感を感じ続けることも、

解放、真の幸せを生きることも、

どちらでも選べる、その自由意志が、与えられている、ということ。

 

 

もし、私たちに自由意志がなかったら、ただただ永遠なるエクスタシーでしかなかった、ということです。

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