内観について、特に「ネガティブな感情の浄化」についてブログを書こうと思ったら、
アメリカの精神科医 キューブラー・ロスによる「死の受容プロセス(5段階モデル、悲しみの5段階)」を思い出しました。
死を告知された患者など、死を目前に控えた人は、次の5つの感情的段階を経験するというものです。
(1)否認、孤立
(2)怒り
(3)取引
(4)抑うつ
(5)受容
これは「死を目前に控えた人が、死を受容していくまでのプロセス、感情的段階について」なのですが、
死を告知されたわけではないにしても、
真に癒やされていく中で、同じような段階を辿る感じがする・・・と、
多くの方とセッションしたり、お話を聞いたり、そして自分を振り返っても、そう思いました。
もちろん(1)〜(4)の中のどれかに長い間とどまるとか、(1)〜(4)まで同時にいろいろ出てくるような感じがする、ということはあると思います。
けれども、あるとき、何かをきっかけにして、内側と向き合うことを決めて、内側を見ると、
まず「蓋」があります。
そして、その「蓋」をゆるめていくと、怒り・攻撃性・憎しみ・恨みなどが出てくる、ということはよくあることです。
このまま「ただ感じる、味わう、その感情の中に浸り切る」ということができれば、
怒りの奥にある(4)抑うつ、あきらめ、悲観、虚しさ、無価値感、憂うつ、絶望、悲しみ・・・などまで出てきてくれるものですが、
ほとんどの場合、この(4)を「ただ感じる、味わう、その感情の中に浸り切る」ことをとても恐れています。
なので(なので?)、
「自分の力でなんとかできないか」という考えが浮かぶものです。それが(3)の取引です。
これは「死の受容プロセス」でいうと、例えば「神様にすがり、善行をつみ、罪を償えば、もしかしたら、死を回避できるかもしれない」というものがあります。
「神様にすがり、善行をつみ・・・」という「〇〇をしたら、自分が望むものを手に入れられる」という、神との取引、交換、ということですね。
死を目前にしていないにしても、そして、取引の対象が神ではないにしても、
この「取引、交換」あるいは「駆け引き、損得勘定、コントロール、操作」などは、様々な形で、日々現れている、ということに気づくことがとても大切なのです。
「神様にすがること」は、一見「自分の力ではなく、神様の力に頼ろうとしている」ように見えるかもしれませんが、「私が神様にすがることで」という「自分の力」「私が感」がベースにあり、サレンダーではなくサバイブのニュアンスがあります。
そして、この(3)取引を、認めて、受け入れて、ゆるして(ゆるしてというのは正当化や開き直りとは異なります)
その先に、やっと、(4)抑うつ、あきらめ、悲観、虚しさ、無価値感、憂うつ、絶望、悲しみ・・・
が出てきます。
よくセッションやクラスなどで、
(4)に該当する、
抑うつ、あきらめ、悲観、虚しさ、無価値感、憂うつ、絶望、悲しみ・・・
あとは、惨めさ、恐れ、恐怖、罪悪感・・・
そういった感情が出てきて、そのことに落ち込んだり、ちゃんと内観できてないではないかと不安になったり、することもあるようなのですが、
逆です
今まで、自分の本音に素直に正直に、心と向き合ってきたからこそ、内観してきたからこそ、
抑うつ、あきらめ、悲観、虚しさ、無価値感、憂うつ、絶望、悲しみ・・・
あとは、惨めさ、恐れ、恐怖、罪悪感・・・
こういったものが、出てきてくれているのです。
この「(エゴがいうところでいう)どん底」だけが、ただただ自分の中にあるとき。
ここまで、向き合ってきたということは、(もしかしたら、向き合ったという意識さえない人もいるかもしれません)
一人では向き合えなかったということでもあります。
エゴにとって、心の中をみる、というのは、危険なことでしかありません。
だから、エゴと同一化しているとき、というのは、内観ができない、深くできない。
でも、ここまで向き合ってこれたということは、神様(内なる神聖性、大いなる存在、無条件の愛、ハイヤーセルフ・・・)が共にいた、ということ。
そういった、大いなる存在が、自分と共にあった、ずっと一つだった、ということ。これを認めることも大切です。
(4)抑鬱まできて、(3)取引へと後退することも珍しくないのですが、
この(4)に浸りきって、その先にあるのが、完璧な愛。本来の自分自身。神聖性。創造性。
だから、(4)の深い深い悲しみ、絶望、恐れ、無価値感、惨めさは、
本当は、歓迎すべきもの。
というか・・・
自分がいかに惨めで、今までの自分が立てた計画が全てうまくいかず、自分が正しいと思っていたことは何も生み出さなかった、今、不幸の真ん中にいる・・・
という、このことを本気で自覚して、初めて、神の計画、完璧な愛の体験、奇跡、にサレンダー(降伏)できます。
自分が間違っていたことを、喜べるのです。その先には、完璧な愛・光があります。それをこれから見続けるのです。
なので、本気で自分は惨めで不幸だ、価値がない存在だ、という、あのなんとも言えない、あの感覚の、その先に、
天と地がひっくり返る体験があるし、それを体験したいと、初めて心から思えるものです。
それまでは、どんなに心が疲れ果てていても、うまくいかなくても、
自分(エゴと同一化した自分)が正しいし、自分が神様と思い続けていたいものなのです。
これは「わたし」がいいとか悪いとかではなくて、エゴと同一化する、というのは、こういうものです。