こんにちは

数日ほど学びを深めるための旅に出ておりました(学びを深める?ための旅?)

今回は、瞑想をしているとき、祈っているときが長く、メールチェックなどが全くできずに、

今日メールボックスを開いたところでした。

すると、クライアントさんたちからのメールが、たくさん届いていて、なんだかとても嬉しかったです。

喜びのメール、あたたかなメール、ご報告のメールも、とても嬉しいのですが、

最近こんな感じですメールや、ご質問メール、再配達なんですけどメールなども、同じくとても嬉しい、嬉しい、というか、

みなさんが心と向き合っている姿が、読んでいて、わたしの心があたたかくなるような感じでした。

お返事を少しお待ちくださいませ。

 

 

内観、心に潜っていく、というのは、正しく内観できていたとしても、ある時期、とても苦しく感じることはあると思います、これはめずらしいことではありません。

間違った方法というか、例えば、(無自覚的にでも)自分を裁きながらとか、コントロールしながらとか、分析しながらとか、そんな感じで内観しても、苦しくなりますし、

闇、無の向こう側に、神聖性というか光というか存在がある、ということを全く知らなかったり、否定していたりすると、虚無感、みたいな感じになることも、あるかもしれません。

そうではなく、ただ内観していても、ある時期、とても苦しく感じることは、あると思います。

これは、心の奥の方に溜め込んでいたものが出てきてくれた、浄化のプロセスなので、ちゃんと内観できてます、ということです。

これを、こわい、と感じる方も、たくさんいらっしゃいますが(まあ、そりゃそうだという感じでもありますが)

「大掃除していたら埃が出てきた」みたいな感じなので、安心して、感じるまま、放つままにしていて大丈夫、という感じです。

ゴミも埃も出さずに掃除をすることは不可能です。

そして「行ったり来たりしている(ように感じられる)」中で、さまざまな体験があるものです。

そのようにしながら、本来の自己としての楽しみ、本当の楽しみが、深まっていきます。

 

 

内観していくということは、自然体に戻っていく、ということでもあります。

自然体、ありのまま、あるがまま、そのリズムに生きているとき、

シンクロ、タイミング、「外的なありとあらゆること、全体」は、自然の一部としていつも感じられます。

この体験を繰り返していくことで、誰の内側にもある絶対的な存在、絶対的な安心感、成就のソースに対して確信するようになります。

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