「罪深いわたし」という信念

例えば、自分を責めていることに、気づくことができたとき。

これは、厳密に言えば、内側に、

「責めている私(裁き、ジャッジメント)」と「責められている私(罪悪感、自己否定感)」が、いる・・・ということになります。

 

 

この「責められている私(罪悪感、自己否定感)」の、

罪悪感、罪の意識、裁かれる恐れ

というのは、とてつもないもの、耐え難いもの、なのです。

なので、それを信じ込んでしまっているとき、感じないようにして、投影します。

だって、とてつもないんですもの。耐え難いんですもの。

 

 

投影する、というのは、簡単にいうと、

「責めたくなる人、ジャッジしたくなる人、今のままじゃダメだと言いたくなる人、批判したくなる人、状況、出来事、何か」を作ったり、

「責めてくる人、ジャッジしてくる人、今のままじゃダメだと言ってくる人、批判してくる人、状況、出来事、何か」を作ったり、

ということです。不満とか、不足感とか、欠乏感とか。その「メガネ」をかけるということもできます。

 

 

どうしたって、感じたくないほどなので、正当化します。開き直ります。

「罪悪感?感じなければいいんだよ」と言って、平気なふりを、装います。

 

 

そして、こういった心の動き(というかエゴの動き)には、

「責められている私(罪悪感、自己否定感)」の、

罪悪感、罪の意識、裁かれる恐れ(私は罪深い存在である)

ということへの信念があります。

そして、この信念の下には、神から分離したいという、一瞬の、欲求(願望)がありました。

 

 

これは「私という人間・肉体・個人の信念」というよりも、

「神ではなく、エゴを信じた神の子たちが、信じている信念」

ということができます。

 

 

なので、

私は罪深い存在である

という信念も、

神から分離していたい

という欲求も、

この、エゴの、「信念」「欲求」を、奇跡に変えてほしいと、求める。

自分ではできないので、求める。

すると、自分というより、エゴの信念、欲求、思考システム自体の訂正を求めることになるので、

「具体的な体験」としての愛の奇跡は、世界が受け取ることになる。

もちろん、これを、「自分がやる」と思えば、不可能な感じがするかもしれませんし、あるいは、綺麗事のように思えるかもしれません。

けれども、「自分がやるのではなく、神が与え続けてくれている全てを受け取りたい、全てが与えられていることを認識したい」と思うのであれば、

このように、ただ欲することが、

「アップダウンのない、永遠に持続される、完璧な幸福、至福、悦び」に繋がることが、わかります。

 

 

もちろん、例えば、「時期的」に、

「今は、まだ、神という具体的ではない、物理的ではないものを、信じたくない、具体的、物理的なものが欲しい」と、思っていたとしても。

けれども、わたしは、奇跡を経験することによって、癒されたいし、本当の自分自身を思い出したい、

という、思いがあるのであれば、それを、そのまま、認めて、(完璧な愛に)打ち明けて、

奇跡を望むことで、奇跡を何度でも、経験していきます。

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