助けを受け取る・あのときの謎の解

前回の記事からの続きです。

「神様 助けてください」と、長い間求め続けきたということを書きました。

長い間求め続けてきた、ということは、つまり、わたしは、受け取るということをしていなかった、言い方を変えると、わたしが、ハートを閉じていた、ということもできます。

 

 

「わたしが受け取るということをしていなかっただけで、与えられ続けていたんだ」

「わたしは拒まれている、拒まれるに相応しいと信じ続けてきたけど、わたしの方が拒んでいたんだ」

「わたしは待ち続けていると思い込んでいたけど、神様が待ち続けてくれていたんだ」

このことに、気づいたとき、すべてを受け取りました。

 

 

それで、なぜ、受け取れたんだろう?と思ったことがありました。

あれだけ、頑なに拒んでいて、なぜ、受け取れたんだろう?

 

 

話はちょっと変わりますが。

わたしは、ある時期、自殺願望を抱き続け、本気で死のうとしたまさにその瞬間、「今死んでも無駄だ」的なことを感覚したのです。

「今死んでも無駄だ」的な、第三者ではないかと思う、声が、響いたのです。

 

 

そして、それまでは、どんなに誰かが、説得しても、慰めてくれても、怒鳴っても、泣き叫んでも、大量の薬を処方されても、絶対に死にたいと思っていたわたしが、

この「今死んでも無駄だ」的な声を聞いた瞬間「確かにそうかも」とすんなり素直に思い、それ以降、自殺願望は綺麗さっぱり消失しました。

 

 

あの出来事は、わたしのハートが開きはじめた大きなきっかけでもあるというか、

助けを受け取った瞬間というか、そういう感じでもあったと思うのですが、

なぜ、それが、今から死のうとしているほどの頑固な状態のときに、わかったんだろう?

ただ単に陰極まって陽に転じただけなのか?

 

 

話は変わって、わたしは2021年頃から、祈り、瞑想を本格的に深めていくようになりました。

それ以前にもしていましたが、なんというか、心から祈りと瞑想を欲するようになりました。

それで、色々学んでみて、いろんな方にお会いして、祈りと瞑想を毎日深めていくようになりました。

それで、あのときの問い、

「なぜ、わたしは助けを受け取れたんだろう?」

「ただ単に陰極まって陽に転じただけなのか?」

という問いの答えを、やっと、受け取ったことがあります。

その答えとは「多くの人々の祈りや瞑想によって受け取れた」ということでした。

 

 

わたしは、訳のわからないまま、とにかく必死に「神様 助けてください」と、よくわからないまま、求めていただけですが、

多くの人々の祈りや瞑想によって、支えられていた、ということを、はっきりとわかることがあったのです。

祈りや瞑想、というのは・・・というか、祈りや瞑想こそが、祈りや瞑想だけが、

このような力を持っている、

遠隔で、空間を超えて、相手の個人的な名前も顔も知らなくても、

そして、その対象が「完全受取拒否状態」であっても、でも、ほんのわずかな一瞬の求める気持ちさえあれば・・・

神の癒しを共有することができる。奇跡を受け取ることができる。

 

 

わたしが本気で死のうとした、あの瞬間、

「おい、お前、今死ぬのやめとけ、無駄だ」的な、

まぁ、なんというか、そういう声が聞こえたのは、

「わたしの第3の目が平均値よりも2.5倍くらい大きくて目力も強かったから」などでは絶対になくて

あの声は、多くの名前もしらない、祈りを捧げ続けている人々。神へ至る瞑想を行う人々。そんな人たちの祈りのおかげ。

その祈りによって、わたしは神の癒しを受け取り、

けれども、まぁ、当時のわたしの粗雑な「わたしフィルター」を通して、

「おい、お前、今死んでも無駄だ」という理解になっていましたけれども。

ほんの数ミリ、ほんの一瞬、鉄のドアを開けた瞬間を見逃さずに、光が差し込んできたのは、

「わたしのおかげ」などではなく、「多くの人々の祈り、瞑想のおかげ」だったのです。

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