うのみ

情報(誰かが言っていること、どこかに書いていること)を、鵜呑みにするということは、外側基準、心を無視するということ。

それが例え「自らの指針となる聖典」だとしても。

とはいえ、いろんな情報に触れてみること、誰かの言っていること、書いていることに、耳を傾けてみることは、

とても、とても、大切です。

そういったことを、ヒントに、参考に、しながら、

自分の心に、自分の感覚に、耳を澄ませていくこと、

そして、自分の思い、自分の表現をしていくことができます。

 

 

「あの人がああ言った」「あの人から前あんな風に言われた」というとき、

それに他責のニュアンスを含むことはよくあって、

それに気づけたら、それが奇跡を受け取る準備をしている、ということ。

わたしも「だって、この本に、こう書いてあるんだもん!」と言いたくなったとき、「ああ、わたしは今、本のせいにしたがっている」と気づくことがありました。

「この本が、こう言った」「ニュースが、こう言った」「インターネットが、そう言ってたもーん」と、言って、

もし、それが「違う」というとき、わたしが言ったわけではないので、知らんぷりが、できる、ということがあるのです。

このようにして、外側に責任を置く、ということは、外側に「信」とか「軸」とかを、置く、ということでもあります。

「わたしのいうことは信じてもらえないだろうけれども、本が言うことだったら、信じてもらえるだろう」みたいなことも、あるでしょう。

 

 

「誰かが言ってること、情報を鵜呑みにしたり、それを正しいと思い込んでいたこと」に気づくことができたとき。

あるいは、

「誰かが言っていることを、自分の考えだと思い込んできたこと」に気づくことができたとき。

「自分は今までインプットしてきたものをアウトプットするということだけをしてきた」ということに気づくことができたとき。

「真似をするということは、本来の自分自身の表現ではない」ということに気づくことができたとき。

そう言ったことに、気づくということが、本当の自分自身に矢印が向いている、ということ。

自分の本音に耳を澄ませている、ということ。

 

 

当然ですが、

わたしも、ブログを書いたり、セッションを書いたり、「質問に答え」たり、しているのですが、

わたしが言っていることも、鵜呑みにすべきではありません。

 

 

その一方で、

誰かが言っていることを聞いて、それが自分の心に響くとき。

誰かが言っていることが、自分が言っていることだと、感じられるとき。

誰かが言っていることが、内なる神からのメッセージだと、わかるとき。

そんなシンクロニシティを、たくさん受け取るようになります。

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