本来の自分自身で生きること・・・
そうなると、願う前に叶うような、そんな感じの経験も増えてきます。
なので、欲さなくなる。渇望するようなこともなくなる。すでに満たされていることを生きているから、自然とそういう感じになっている感じ。
それで、本来の自分自身と一致して生きるためには、
自分が自分に正直であること
自分が自分を嘘偽らないこと
自分が自分を誤魔化さないこと
・・・こういったことが、とても、大切です。
そのようにして、自分の考え、自分が思っていること、自分が感じていることを、自分で見ていくこと、認めていくことが、内観でもあるのですが。
このとき、最初に出会うのは、そのほとんどが、「エゴの思い」です。
まず、自分が自分の中にある、エゴの思いに、正直になる、という段階があります。
これが「正直さの一段階目」です。
これも、とても大切なことです。
「正直さの一段階目」
例えば・・・
不快なものを、不快だったと認めること。
嫌なものを、嫌だったと認めること。
本当は、あのとき、もやっとしていたけれど、そのもやっとしていたものを無視して決断したことを、認めること。
本当は、とてもとても、怒っていた、と認めること。
「愛しているどころか、復讐してやりたい」くらいの思いがあったことを、認めること。
「自分は無力だから、パートナーや親に依存していたい」と思っていたことを、認めること。
相手をコントロールしたいと思っていたことを、認めること。
・・・このような思いは「本当の自分自身」ではありません。エゴの思いです。つまり「わたしじゃない」のです。
けれども「いい子でいなくっちゃ、いい人でいなくっちゃ、いい人間じゃないとダメだ、立派なすごい特別な人間じゃないとダメだ」と思っているような場合というのは、
この、エゴの思いを、「悪いこと、ダメなこと」と禁止しています(=二重三重のジャッジメント)
エゴの思いを禁止するということは、
「エゴの思いが自分だ」と信じることになりますし、そのエゴの信念を保持することになります。
けれども、エゴの思いは、わたしの思い、ではないのです。
このことを理解することは、とても重要なことです。
・・・なので、例えば、
復縁したいと思っていた彼に対して、リベンジしたい、というエゴの思いがあったことを、正直に認められるとしましょう。
このことも、とても重要なレッスンです。
(今、自分にとって重要なレッスンを受け取るたびに、奇跡を受け取るものです)
けれども、
「彼にリベンジしたい、復讐したい」
これは、本当の正直な本音、ではないのです。
本当の自分というのはエゴではないので、これが本当の正直な本音のわけがありません。
本当の正直な本音、というのは、
本来の自分自身の、無邪気で、純粋な、思いです。
なんの穢れもしらないところから発せられる、
ずっと自分の中にあった、魂の思い、みたいな感じです。
「成分:愛」という感じでしょうか。
この本当の正直な本音、というのが「正直さの二段階目」です。
これを、自分が自分で聞くことが、
本来の自分自身と一致していく、ということです。
※なので、例えばですが、わたしに「本当の自分の本音はなんですか?」と聞かれても、わたしはわかりません。自分以外の誰かがわかるわけがないですし、仮に感じ取れていたとしても、相手の本音を他者が代弁することは「奇妙な方の宗教、教祖様様の始まり」だと思っています。
※宗教自体が奇妙なのではなく「宗教をエゴで解釈し、エゴの誘惑に唆され、そういった同じテーマを持った人々が集まり、(結果的に)奇妙な感じになる」という意味で書いています。
正直には、二段階、あります。