前回の記事を書きながら、思ったのですが。
ゆだねますとか、お預けしますとか、
捧げますとか、差し出しますとか、
降参します(サレンダー)とかって、
パン生地をこねた後の「膨らませます」という感じです。
発酵させるときは、もう、そっとして、じっと待っておくしかないのです。
「ゆだねられない」という場合は「膨らますことができない」と言っていることと、ほとんど同じです。
ここで思い出したいのは「このときに、自分がすることは、パンを膨らませたいという気持ちが自分の中にあることを認めたら、あとはそっとしておくことだけ」です。
ゆだねずにいる、というのは、どういうことかというと、
例えば、こね続けて腕が筋肉痛になっているような感じ、
あるいは、パンに自分の息を吹き込み続けようとしているような感じで、
それで「なぜパンが焼けないんだ!?」となってる感じです。
それで、じゃあ、膨らませるにしても、湿度とか温度とか、なんか色々あるかもしれませんが、そういうことは、意外とすでに、知っているということもよくあることで、
これ以上の「真の学び」みたいなものは、実際にパン生地をそっとしておくことで、体験してみるしか、ありません。
あるいは。
いい感じで、ぷ〜っと膨らんでいるのに、「自信がない」「失敗したらどうしよう」「家族を悲しませるかもしれない」「みんなから変な人だと思われるかもしれない」などといって、いつまでも焼かない、という場合もあるかもしれません。
なので、自信がないとか、失敗したらどうしよう、というのは、ぷ〜っと膨らんだパン生地を見て、焼くのが怖い、といっているようなものです。
その「焼くのがこわい」と言っている自分を否定したり、見下したりする必要もありませんが、
「過去失敗したからまた失敗するだろう」とか「家庭環境がこうだったから、トラウマがある」とか「ただこわい」とか、そういうものから自分を解き放つとき、という「とき」も、あるものです。
こういう場合、確かに、自分の感覚に従って、行動することが「レッスンテーマである」ということでもあります。
そのときの自分のレッスンテーマを受け取ると、必ず、GOサインというか、そういう現象が現れるということもよくあります。
確かに、人それぞれ、今、どんなテーマの中にいるのか、というのは異なるということはあると思いますが、
多分、うっすら、なんとなく、自分でも気づいてる、そんな感じがする、というのは、あったりするものです。
その、うっすらと、自分の中にある「なんか、そんな感じがする」という声を、自らかき消してしまう、ということは、よくあることかもしれません。
例えば、いい感じで、パン生地をこねてきたけど、急に不安になって、友達に電話をかけて「キッチンが今ぐちゃぐちゃだ」と相談したら、「今すぐ片付けたほうがいい」と言われて、そういえば先日読んだ本にも「行動を変えることが大事だ」と書いてあったので、パン生地ごとキッチンを片付けた、みたいな。
そういうことも、意外と、あることかもしれません。
そして、パン生地ごとキッチンが片付いたのは、友人のせいでも、本のせいでも、ありません。
大事なものは、自分の中にあって、それを大切にすること、感じること。
目的、というのは、知らない間にすり替わる、ということもよくあることなので、自分の中にある目的を見続けること。
最初のうちは「あとになって、その意味がわかる」ということもよくありますが、
その時差が、だんだん、なくなってくるということも、あるかもしれないです。