「真の自己」というのは、人間ではない、ということを書きました。
「真の自己」というのが、人間(肉体、個人)というのであれば、そりゃ誰だって不完全あるということになりますし、「外敵は存在する」ことになるので対立・争い・葛藤は避けられませんし、「あなたとわたしは違う」ということになります。
老いも、死も、苦しみも、痛みも、「過去のあの出来事」も、別れも、避けられません。この世界というのは、そういうものです。
そういった、切なさを、受け入れる必要があります。
恐怖も、受け入れる必要があります。
「嫌なこと」「不快なこと」も、受け入れる必要があります。
例えば、例えばですけど、天災のあったとき。
もし、自分がその災害に遭えば、どこかに無事な人々もいて、その災害での経験がなんらかの形で役にたつ、ということはあるかもしれません。
けれども、とても、恐ろしい目にあったとき、それは心にも身体(脳、神経系)にも傷を残し、苦しみを抱えるということがあります。
その場合「この苦しみは、あなたにはわからない」という壁を作ることもあるのです。
災害に限らず言えることですが、「わたしだけの苦しみ」は、「わたしだけの苦しみ」として、どこか、大切に隠し持っていたくなるような、そんなところがあるものです。
反対に、自分はその災害に遭わなかった、というとき。
「ああ、自分が住んでいるところは、被害に遭わなくてよかった」という思いに、もし気づくことがあったら、罪悪感を持つかもしれません。
自分は被害に遭わなかったけれども、被害に遭った人々は確かにいる。
そんな人々がいることを想像することをストップして、思考停止して、「ああ、自分は無事でよかった」「ああ、自分の友達は、無事でよかった」と、顕在意識ではそう思っていたとしても、心の奥では本当はそう思っていないかもしれないのです。
そして、じゃあ、天災がなくなればいいのか?というと、今度は「地球さん」「大自然さん」「宇宙さん」の事情が気になるところです。
そうなってくると、もう、自分は何もわかっていないことがわかり、自分には「正確な判断」などできないことがわかり、「正解」などわからないことが、わかります。
「自分は正しい」と、言いたくなったことも、あったけれども、全くそんなことはなかった、ということが、やっとわかります。
そして、こういうところまで想像力が及んだとき、「神は存在するのか?」ということが頭によぎることがあります。
神は、愛ではないのか?
神は、無条件の愛ではないのか?
そして、神社に行ったときに引いたおみくじに「あなたは神の子である」ということが書いてあったことを思い出します。
わたしが神の子で、神がわたしの「親」なのだとするならば、我が子を、こんな恐ろしい目に、合わせるのだろうか?
無条件の愛である神が、「我が子のことを思って、お前のために、試練にあわせてやってるんだ」なんて、そんな、人間的なことするだろうか?
こんな「お前のために」とかいって、「試練を与えてやってる」なんて、押し付けがましいことするのであれば、わたしは嫌だ。というか、変だと思う。そんなの無条件の愛でもなんでもないと思う。
神というその定義上、神は時間を認識しないので、「今は苦しくても、後になって役に立つはずだ」とか、そんなことなさらないはずなのです。
今、これ以上ないほどの、幸せを惜しみなく与え続けてくれてるはず、なのです。
完璧で完全で全知全能で無条件の愛であるはずの「神」は、その我が子、我が子たちを、不完全に創造なさっただろうか?
完璧で無条件の愛である神ならば、その我が子を完璧に創造し、完全な愛で包み、永遠に守っているはずなんじゃないか。
「人間としてのわたし(人間、肉体、個人)」は不完全ですので、完璧な神が、完璧な創造性を持って、完璧に創造なさった完璧な神の子としての自己、というのがあるはずだ、ということになります。
「人間としてのわたし」と「神の子としてのわたし(わたしたち)」。
どちらかが実在するということは、どちらかが実在しないということになります。
これを分裂して認識しているから、心のどこかで「どっちも存在する」みたいに思ってるから、葛藤するのかもしれない。矛盾するのかもしれない。
何をどのように、信じていたとしても、悪いとか、劣っているとか、裁かれるとか、そういうことはなく、
何をどのように、思ったとしても、尊重されています。
けれども、自分の中に何を選択して決断する力があって、自分が見たいように見ている、ということです。
それで、このようなことから、肉体というのも、この世界というのも、変化するもので、変化するものは、実在ではなく、幻想である、ということなのですが、
これは、どういうことかというと、「だから、体のことなんて、どうでもいいんだ、この世界のことなんてどうでもいいんだ」ということではありません。
自分のことを、まだ、身体だと信じ込んでいるのであれば、それを素直に正直に認めることが、大切なのです。
その上で、例えば、身体のケアだったり、身体の治療だったりを、真の癒しの機会、目覚めの機会として、受け取ることができるのです。(自分がそう望めば、の話ですが)
行動も、体験も、心が選択した通りのものとして受け取っています。
だから、自分の心を無視せずに、感情や思考をただそのままを大切に認めていく、ということをしたならば、
結果的に、身体のことも、大切にするようになります。
心を無視しているからこそ、身体のことも無視するものなのです。
自分というのは、本当は、愛そのものだったんだ、というのを、自分の心の中に見つけることができたとき、認めることができたとき、
身体でも、行動でも、仕事でも、経済でも、なんでも、その愛が延長されたものとして経験されていくことになります。
愛と恐れというのは、決して共存することができません。
そして、愛というのは、決して傷つくことができません。
愛というのは、不滅性、永遠性のこと、分離分裂がないものです。
(これはもう、そういうものだ、という話です)
老いも、死も、苦しみも、痛みも、「過去のあの出来事」も、別れも、敵も、対立も、葛藤も、恐怖も、傷も、
そういったものを、超えたところを知っている「本当の自分」が、自分の中にある、という可能性に、心を開けるかどうか。
信じる信じないとかじゃなくて、「そういうことも、あるかもしれない」と、思ってみる、そういう「ゆるみ」みたいなものを、自分に許せるかどうか、という感じです。