自分と向き合う、ということについて。
自分と向き合おうとしても、ほとんどの場合、最初は、エゴばかりが見えるものです。
そりゃそうです。
エゴと同一化しているときは、何を見ても、「エゴメガネをかけて見えるもの」に見えます。
この世界のことについての考え(感情、思考、信念、欲求など)は、厳密に言えば、内側のことではなく外側のことです。
この、この世界のことについての考え、分離からの考え・パターン、というのを、エゴ、と呼んでいます。
なので、内観しようと思って、外側のことについての考え(Aさんがああいった、仕事がめんどくさい、〇〇を手に入れたい等)が出てくる、というときは、「ああ、自分はすごく外側を見ているんだな〜」ということがわかります。
それで、エゴ(外側)、というのは、本当の自分じゃありません。
エゴ、というのは、空に浮かぶ雲、という感じです。
雲だけを追いかけていくのではなく、「空に浮かぶ数々の雲」を見る感じ。
雲を分析したり、問題視しても、なんともなりません。
雲を雲だと判別できたら、雲を見るのをやめればよいだけです。
最初は、雲をなんとかしようとしがちなので、雲ばかりが次から次にやってくるように感じられることもあるかもしれません。なんとかしようとするということは、自ら追いかけるというようなことでもあります。
空に浮かぶ数々の雲を眺めながら、自分が本当に望んでいることはなんだろう?と問いかけていきます。
自分は雲を見たいのか?雲ではないものを見たいのか?どっちを望むのか?みたいな感じです。
雲ではないもの・・・を、仮にここでは「光」とします。
それで「光」を自分は見たいんだ、それを望んでいるんだ、という思いを、自分の中に見つけることができたとき、すでに光を見ることになります。
これは、まさに、外側に向けていたエネルギーを、内側に向ける瞬間でもあります。
エゴに捧げていたエネルギーを、創造性に捧げる瞬間、みたいな感じでもあります。
これが、いわゆる「自分と向き合う」ということです。
「雲はもう望まない、雲ではないものがあることを思い出したい。それをわたしは望んでいる」という場合も同じなのですが、
ここで「雲ではないものとは、こういうことだ」「光とは、こういうことだ」という「邪魔(エゴの定義づけ。雲。)」があると、思い出せなくなる、ということもあります。
なので「わからない」とした上で、ただすでにそこにあるものを思い出したい、という感じです。
「わからない」というのは、空にしておく、ということでもあります。
その空っぽのところに、「欠けたものを埋めるもの、足りないものを補うもの(雲)」を見るのではなくて、
「もともとすでにあったもの、光」を見たい、という感じです。
雲の方から、光の方に、くるんと、向きを変える感じなのですが、いきなり向きを変えたとしても、光への恐れが強烈に出てくるということがあります。
なので、その場合、何度も祈りながら(雲を光に捧げながら)、「光はこわくない」という体験をしていきます。
これは、全体的な流れ、みたいな感じなのですが。
「雲を自分だと思い込んでいる」という場合は、まず、自分は雲ではない(らしいぞ)というところからはじめていきます。
なんというか、こうやって書いてみると、よほど雲が大好きなのかな、みたいな感じがしてきます(笑)
ちなみに、この、雲を自分だと思い込んでいるとき、相手のことも雲に見えます。(「自分が見たいように見ている、自分が作っている」というのは、こういうことです)
相手を見ているようであって、実は、雲を見ている。
その雲を相手にコミュニケーションを取ろうとすると、見事に「話が噛み合わない」「わかってくれない」「怒られる」「無視される」「やめてほしいといってることをやめてくれない」等となります。
これを、一般的には「価値観の不一致」「相性が悪い」という言い方になるのかもしれませんし、もうちょっと専門的?な言い方をすると「依存関係」という言い方になります。