こんばんは。
9月6日 金〜 9月9日 月までお休みをいただいておりました。
それで、ご予約の合間などにお返事を書いていて、メールのお返事が、とても遅くなってしまっているのですが、今、お返事を書いていっています。
よろしくお願いいたします。
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今日は、言葉ではないものでやってきたものを、言葉にしてみるブログです。
ワードでいうと、
「自信」「自覚」「光、輝き」
自分が、自信をなくしているとき、
「もっと、自信を持ちなよ」
なんて言われると、ちょっと嬉しい気持ちもあるけれども、「そんな簡単に言わないでくれよ」みたいな気持ちもあったりもして、
「もっと、自信を持ちなよ」
と、ただ一言だけ、そういってくれた人は、いったい、どんな思いを向けてくれていたんだろう?
その人の目に、何が映っていたかなんて、自分はわからないし、そういえば、わかろうともしなかった。思いを馳せてみるとか、そういうことがなかった。
自信を持てないとき、というのは、
できるか?できないか?
とか
正しいか?間違いか?
とか
失敗するのが怖いとか、嫌われるのが怖いとか
「自分だけの定義、決めつけ」とか
「過去ああだったから、きっと今回も、そして、これからも、そうだろう」とか
みんながどう思うか?とか
人からどう見られるのか?とか
そういったものが、わぁ〜っと出てきてるときでもあって、もう、それが真実みたいな感じがしてしまうときでもあります。
自分が自分を裁いて見張っているので、「自分もそうだから、相手もきっとそうだろう」と思い込み、
人からも裁かれるのではないか、と思ってしまっているのです。
こんな自分はダメだとか。
こんな自分は嫌いだとか。
過去を引っ張り出してきて、いつまでもそれを理由にして自分を責めて批判する、とか。
ちゃんとしなくっちゃ、と、ピンと張り詰めた神経の中で自分を見張っている、とか。
こういうのが、わぁ〜っと、出てきてるときって、
「自分だけ、しかも、ダメな自分だけ」しか見えてなかったりするので、
あるいは「作り上げたできる子の自分」が自分だと思ってたりするので、
素晴らしさというか、光というか、そういうものが全くわからないものになってしまっていて、
そういうときというのは、その光が、今も、のびのびと、伸びていっている流れに、逆らっているような感じで、
だから、まずは、その光を自覚をしましょう。
みたいな、そんな感じです。
ただ、認める、みたい感じです。
何が?とか、証拠は?とか、つべこべ、言わない(笑)
いつまでも弱いままでいようとするから、なんか、現実と噛み合ってない感じがする、スムーズに流れていかない感じがする、ということもあって。
でも、確かに、弱さはなかった、強さがあった、と、光を認めることは、
ただ、それだけを、認めることは、
ある意味、とても、こわい感じのこと、さみしいような感じのこと、に、感じられるときもあるかもしれなくて、
それは、まるで、妹か弟が生まれたときみたいな感じかもしれなくて、
だから、ただ、それだけだったと、シンプルに認めることが嫌だから、
原因探しをしたり、「なぜこんなに苦しいのか?」という謎を解明しようとしてみたり、
家庭環境を分析してみたり、心理分析しようとしてみたり、みんなと比較してみたり、
いろんなことをしてみて、忙しくしてみる。
でも、もしかしたら、もう、ただ、ずっと、自分の中で、自分から認められることを待っててくれた光を、自分が認めるだけでしかなくて、
「私が神様を求めた瞬間」というのは、同時に「神様が私を求めた瞬間」であって、これも、ただそういうものでしかなくて、
デコレーションして遠く離れたものにしてしまった夢は、
その包み紙の中において、ちゃんと叶えられていて、与えられていて、すでに所有している。
あまりにも、デコレーションして、ドラマチックにしてしまっている状態で、あらかじめ「これはこういうことだろう」と予測してしまうことは、ただ、勿体無いだけ。遠回りなだけ。
遠回りなだけだから、悪いわけではない。
一番欲しかったものは、包み紙の中にあるから、包み紙じゃなくて包み紙の中にある。