たまに、たまに、ですけど、わたし自身の話などをブログに書いていると、
「ringoさんはすごいな。わたしなんかどうせ・・・」という「声」が聞こえます。
「すごい話」はひとつもありませんが、とにかくそういう「声」が聞こえたので、そう書きました。
しかし「あの人は、すごい。わたしなんかどうせ」というのは、エゴの思考システムであり、つまりそれは本来の自分ではない、ということで、
エゴは何を目的としているかというと、分離、欠乏、不足、罪悪感(劣等感、自己否定感、無力感、無価値感、等々)の証明であって、その手段の一つが比較、です。
本来の自分が愛されたいのであり、愛したいのであり、愛を体験したいのであり、エゴは愛の破壊の証明をしたいだけです。
なので、もちろん、罪悪感や不足感や欠乏感や不幸を感じたい、証明したいのであれば、比較するしかないですが、
罪悪感や不足感や欠乏感をもう感じたくない、そういった感情や感覚やブロックに支配力を与えたくない、というのであれば、比較を退けることができます。その力を、わたしたち全員は持っています。
それで、例えば、ガイダンスを求めたり、質問をしてみたり、
あるいは、自分の心の声を聞こうとしたり・・・
そういうことをしてみて、自分が答えを受け取れなかったらどうしよう、体験を受け取れなかったらどうしよう、と、
ずっと昔、わたし自身が、こういうことを、恐れていたことを、ふと思い出しました。
自分が助けを求めても、導きを求めても、答えられなかったら、それはとても、悲しい、孤独な、惨めな、怖いことだ、と思っていたのです。
そうなることを、恐れて、聞くことも、祈ることも、しなかったことがありました。
それで、そんなふうにして、気が済むまで、こわいといって、背を向けてきました。
気が済んだので、とにかく、なんでも、聞くようになりました(笑)
あるとき、シャーマンが「目が見えないのは、こわいものだと信じ込んでいるからだ」と言ったことを思い出します。
※ここでいう「目が見えない」は、肉眼の話じゃない方の話です。
「神になんでも尋ねようとしないのは、弱いままでいたいからだ」という言葉を思い出します。
確かに、自分が本当に知りたいことではないことを聞いても、答えは返ってこない、体験が受け取れない、みたいになることは、あると思います。
だから、本当の自分の正直な本音だけを、見続けていくこと・大事にし続けていくこと、闇に譲歩しないということを、高次の存在との対話、コミュニケーションで、学んでいきます。