待った方がいいときと、動いた方がいいとき

ここ数日、セッションで「待った方がいいときに動いて、動いた方がいいときに待ってる」という感じのテーマが続いたので、このことについて、ブログを書いてみたいと思います。

 

 

わたしは以前、ブログに「待つ」ということを書きましたが、これは、

祈る→具現化を確信する→ほとんどの場合、人を通してやってくる

みたいなところがあるので、そう書きました。

それで「人を通してやってくる」についてなのですが、これのほとんどすべてといってもいいほどなのですが、自分が予想していたものを超えるものなので、ハートを全方向にオープンにしておく感じが、すごく重要です。

 

 

けれども「動いた方がいいとき」というのも、あります。

 

 

この「見分け方」みたいなところをよく聞かれるのですが・・

内観・浄化していくと、自然と、この「見分ける」感覚ははっきりしてくるものなのです。

内観しないまま、あるいは、内観しているつもりで分析している等のままで、「見分け方だけを知ろう」としても、そういう状態では、そもそも、見分けることは難しかったり、見分けることはできても、無意識的に自分で否定していたりするものです。

 

 

継続コースなどで、クライアントさんのお話を聴かせていただいていると、

ちゃんと、ガイダンスを受け取れていることがほとんど、という感じです。(しかし、あとから、エゴが否定してきて、エゴのガイダンスに従っちゃう、みたいなことが多いです)

 

 

「待った方がいいときと、動いた方がいいとき」について、他に何かあるとするなら、

シンプルに言ってしまえば、

エゴと逆をやるといい

つまり、今までの自分(エゴと同一化していたとき)の選択と逆の選択をしてみるといい

エゴが嫌がってる方をやるといい

みたいなところがあるかもしれません。

※しかし、これもある程度内観、浄化、自己一致できていることが大事で、ときには勇気が伴ったり、さらに深く本音と一致することが必要かもしれません。

 

 

ちょっと具体例を書いてみます。

 

 

例えば、待った方がいい場合。

今まで、「パートナーと仲直りしたい!わたしの気持ちをわかってほしい!」みたいな感じで、ガンガン動いていた場合(自分からどんどん話したり、ラインをたくさん送ったり)は、「静かにして待つ」というのがいいかもしれません。

※なので、恐れ、欠乏感、などから動きたい場合は、待った方がいい、という感じですね。

 

 

逆に、動いた方がいい場合。

二つ例を書きます。

(1)お姑さんのことが苦手で、先日ちょっとひどい言い方をしちゃった。でも、内観してみると、完全に投影だったとわかったし、私は罪悪感ではなく、奇跡・幸せを望む、祈る。そのあとで「自分から謝罪しに行ってみようかな」という感覚が出てきたけど、恐れの感覚も出てきたし、ringoさんのブログに「待った方がいい」と書いていたので、待つことにしよう。←この場合は、動いた方がいい場合ですよ(笑)

(2)とてもやってみたいことがあって、でもそれをやるには家族が反対するかもしれないし、お金もかかるし、今まで通りでいいのかもしれない、衝動的に動く自分はダメだ。祈って、お金を引き寄せて、状況が整うのを待ってからにしよう。←この場合も、動いた方がいい場合ですよ(笑)

 

 

ちょっと解説です。

(1)の場合。

まず祈ったあとに、微かかもしれません、非常に微かかもしれませんが、「自分から謝罪しに行ってみようかな」という感覚が出てきたのであれば、それがいわゆる、内なる光によるガイダンスです。

同時に出てきた、恐れの感覚は、エゴによる奇跡に対する抵抗ですし、「ringoさんのブログに、待った方がいい、と書いていたので、待つことにしよう」というのは、エゴによる他責作戦(ringoのせいにしよう作戦)です。

あ、もし、これにお心当たりのある方、私は、怒ってませんよ 笑

私自身何度もこういうことありましたし、ただ、あのときは、完全なる幸せがこわいと思い込んでいただけなのです。

 

 

(2)の場合。

まず「でもそれをやるには家族が反対するかもしれないし、お金もかかるし、衝動的に動く自分はダメだ」というのは、「エゴの概念」言い換えると「古い固定観念、人類集合の機能不全の概念」を守り続けようとするエゴの働きです。

エゴの働き、というのは、本来の自分自身の純粋性、魂とは、何も関係がない、ということです。

なにか変化を起こそうとしたとき、創造しようとしたときに出てくる「今まで通りでいいのかもしれない」というのは、恒常性維持機能です。恒常性維持機能、というのは、生体の内部環境を一定に保つ、という意味では有り難いかもしれませんが、

「やりたいことをやりたいときに自由にできない」という古いパターンを恒常性維持機能、つまり、「やりたいことをやりたいときに自由にできない」という状態を一定に保とうとする働きです。

それで「祈って、お金を引き寄せて、状況が整うのを待ってからにしよう」というのは、「神を試そうとする感じ」「神を便利屋さん扱いしようとする感じ」「神と取引しようとする感じ(取引信仰)」がないかどうか、立ち止まってみる必要があります。

「神を試そうとする感じ」「神を便利屋さん扱いしようとする感じ」「神と取引しようとする感じ(取引信仰)」・・・こういったことを、私たちが神様にしたとしても、神様は裁きません。というか、こういう状態では、神様は感知ができない、みたいな感じのです。

なので、神の意に沿った祈り、というのは、神様が感知できるような祈り、ということでもあります。

なにをしたとしても、神は裁きませんが、エゴの声に従っている場合、自分が自分を裁くことにはなります。

 

 

それで、こんなふうに、書いてますけど、「待つときの不快感」も「動くときの恐れ」も、本来の自分自身と一致するプロセスにおいて、誰もが経験することです。

「性格悪そうな、罪深そうな、エゴの思考体系」も、本来の自分自身と一致するプロセスにおいて、誰もが経験することです。

本来の自分自身は完璧な愛だからこそ、自分の中に、エゴの思考体系を自覚したときに、責めたり、裁きたくなったりするのです。

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