「なにかしてもらったら、お返ししないといけない」

「なにかしてもらったら、お返ししないといけない」

これも、最近、セッション等でシンクロ連打してるテーマなので、記事を書いてみたいと思います。

 

 

「なにかをしてもらった。こんなにもたくさんのものをいただいた。わたしもお返しをしたい。わたしも与えたい」

というのは、ピュアな思いなのだと思いますが、

「お返ししなければならない」という、義務感というか、宿題感というか、そうなってくると、きついものです。

恋愛結婚面、仕事面、健康面、家族面、パートナー、どこで出るか、分かりませんが、どこか現実面で「うまくいかない」となります。

これは、脅しで書いてるのではなくて、どこか現実面で「うまくいかない」、しかも「自分が一番大切に思ってるところ、大切に思ってる人との間でうまくいかない」となるのは、

内側に戻るようにと呼びかけられている、みたいな感じなのです。

そういう機会として、受け取ることが、とても大事です。

 

 

それで「なにかしてもらったら、お返ししないといけない」という場合。

これは、二元の視座(物理的視座)を使っているからだ、ということもできます。

物理的視座から見ると「相手からなにかをもらった、してもらった」ということは、極端な言い方をすると、相手から何かを奪った、ということになります。

相手から何かをもらった場合。物質が、相手から、自分の方にきた、ということですが、それにより、相手は、失っている、欠けている、ということになります。

相手から何かをしてもらったという場合も同じです。相手の肉体なのか、脳なのか、エネルギーなのか、時間なのか、そういったものを、わたしのために、消耗させた、浪費させた、ということになります。

ガソリンを、使わせてしまった、みたいな。相手は、わたしのために、ガソリンを失ったわけです。

わたしのせいで、相手はガソリンを消耗させてしまったわけです。

ですから、ガソリンをお返しするか、せめてガソリン代だけでもお返しをするか、次はわたしがガソリンを消耗させてみせるかを、しないと、申し訳ないに、決まっています。

こういったことは、二元の視座(物理的視座)を使っているがゆえに、感じていることだ、ということもできます。

 

 

視座を変えれば、自分が感じる内的な体験も、そして物理的(互換的)な体験も、誰かとの関係性も、変わってきます。

視座を変えないまま、外側を変えようとすることは、苦行でしかありませんが、

自分が視座を変えれば、その視座の通りの現実を受け取ることになります。

古い固定観念、競争意識、罪の意識、常識、呪縛、しがらみなどの、浄化具合にもよるかもしれませんが、

視座を変えたら、その通りの現実を受け取ることになる、というのに、本来、時間空間は、関与していません。無関係なのです。

なので「タイムラグが」という場合は、浄化です。

なにか、自分一人では気づくことができていなかった、盲点がある、ということです。

 

 

「なにかしてもらったら、お返ししないといけない」

これから、義務感、宿題感、申し訳なさ(罪悪感)を浄化したからといって、

「なにかをしてもらっても、お返しはしませんので」

みたいには、なりません。笑

しかし、二元の視座からは理解不可能な、内的体験と外的体験が待っている、という感じです。

二元の視座からは理解不可能、というのは、地上から見る景色と、上空から見る景色が、単純に異なる、みたいな感じです。

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