分岐点

旧ブログ時代に、よく、自分自身が、分岐点な感じを感じていました。

今思えば、それは、わたしにとっては「自己というものが肉体か?それ以外か?の分岐点に立っていた」ということもできるかもなぁ、という感じです。

 

 

この分岐点な感覚、で思い浮かぶのが、二極化とか、覚醒とかの話です。

これを、現時点での自分の感覚の自分の言葉で書いてみると、

二元の視座か、一元の視座か、です。

それで、二元の視座、というのは、エゴの概念・分離の概念、ということができるのですが、

他の言い方をすると、古くから受け継がれてきた機能不全の思考体系、ということもできます。

固定観念、競争意識、罪・裁き・罰の意識、常識、呪縛、牢獄、しがらみ・・そういった感じです。

「古くから受け継がれてきた機能不全の思考体系」というのは、批判してるとかじゃなくて、この中に自分をおいていると、自分が苦しくなります。どこかつらくなります。満たされない感じになります。

「思ったことが具現化する」ということが、時間がかかったり、困難に感じられます。

一元の視座、というのは、創造性を輝かせる、愛を拡大させる、喜び、そして、喜びを分かち合っていく・・という感じです。

 

 

どちらの道を選ぶことになるのか?

これは、自分がどちらを望むのか?でしかありません。

「あなたの代わりに、私が、タケコプターで、あっちの道に、連れて行ってあげよう」ということは、できないのです。

自分がどちらを望むのか?でしかありません。

自分が望むことで、選ぶことになり、決断することになります。

このように書くと、単純で簡単なのですが、実際、そのプロセスは「大変困難」に感じられることも少なくありません。なので、たくさんの、優しく幸せな、奇跡が必要・・と私は思ってます(笑)

この「自分の心の奥の望む力、選ぶ力、決断する力」と一致するということを、内観・浄化を通して、確かなものにしていくわけですが、そのプロセスでは「自分は不幸を望んでいた」とか「解放されたいと思っていなかった」と気づくことも、あるのです。これは、びっくりすることでも、問題視することでもない。

ただ、単純に、自分が不幸を望んでいたから、今まで「不幸な現実」を受け取っていたんだ、という答え合わせが、できた、ということでもあります。

 

 

それで、二極化とか、そういう話なのですが、これは、年々、その差が激しくなってくる、関われなくなってくる・・ということが言われています。

これは、どういうことか?ということを、書いてみたいと思います。

 

 

これは。例えば。

一元の視座を選ぶと、想像を絶する幸せで喜びな展開を体験しながらも、「思いのまま、意のまま、これ以上満たされているという感じはない」という感じが、どんどん、深まっていきます。

たくさんのシンクロと共に生活するようになり、思考はインスピレーションのために使われます。

例えば、ふと「〇〇という場所に広い家があるといいな」という思うと、本当にそうなっていく、動いていく、具現化する、ということを、体験する、実感していくのです。ここに「自分からガツガツ頑張って行動する雰囲気」がないのです。

そして、こういう人たちが増えていっている、と言われていて、確かに増えていっているということは、私も肌で感じています。

 

 

さて、ここで、二元の視座を使っている人からすると、一元の視座を使っている人はどのように映るか?というと、

ずるい人と見えるかもしれませんし、

妬み、嫉妬、羨望の対象と見えるかもしれませんし、

利己的、独善的な人に見えるかもしれませんし、

怪しい、悪い人、道徳的に間違った人に見えるかもしれませんし、

気が狂ったような人に見えるかもしれませんし、

変な人に見えるかもしれませんし、

私服を肥やしたい欲深い人に見えるかもしれません。

成功して悪魔に取り憑かれた人に見えるかもしれません。

そして、このように見える、というとき、自分の内側は穏やかではありません。

このまま、自分の視座、見方を変えたいと思わない場合は、

ますます二元的な見方が深まる、みたいな感じになるので、一元の視座を自ら引き離す、ということになります。

 

 

一方、一元の視座の人から、二元の視座の人をみると、どのように映るか?というと、それは、いろいろな表現の仕方があるでしょうし、いろいろあるかもしれませんが、

わたしがしっくりくる言葉で書いてみると、自分自身そのものに見えます。つまり、麗しい神の子に見えます。偉大なる力を持った尊い宝石に見えます。

問題視や深刻視が、どんどん、なくなっていくのです。

だから、いつだって、みんなを歓迎モードなのですが、自分が問題視深刻視をしていないので、相手が問題視や深刻視をしていることが「どうして?(単にハテナ)」みたいになることは、よくあることだと思います。

それで、一元の視座の人が「どうして?(単にハテナ)」と、二元の視座の人に尋ねると、二元の視座の人は「責められた、問い詰められた、わかってくれない」と感じることが、あるのです。(この二元側の反応、わたしは経験がある!笑)

 

 

自分の心は、感覚は、ハートは、どっちがいいと、言ってるでしょうか。どちらに、安心を

自分が望んだものを、受け取ることになります。

自分が望めます。自分が選べます。自分が決断できます。

その力を、持っているのです。

これは「できるか?できないか?」の話じゃないのです。できるかできないかは、なんというか、どっちでもいいというか、そういう話じゃ、そもそもないのです。

・・・昔、わたしが霊視をはじめて正式に学んだとき、相手のオーラをみること等を教えてもらっていたのですが、そのときの師はなんと言って教えてくれたかというと「できるかできないかじゃなくて、みるかみないか、だから」だった・・ということを、思い出します(笑)

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