ここ1週間くらいの間で、シンクロしたお話。
何がシンクロしていたかというと、
「(自分は生死に関わった経緯により)、やった後悔よりも、やらなかった後悔の方が後悔すると悟った」
みたいなお話を、3名連続で、聞いていました。
この3名は、一見、全く何の関連もない、3名です。
「自分は生死に関わった経験により」というのは、
あるひとは、自分が生死の間を彷徨ったことがあり、
あるひとは、何人もの人の死を見守った経験があり、
ということでした。
自分が生死の間を彷徨うことも、
何人もの人の死を見守った経験も、
なかなかレアですし、
それが、それぞれ、「やらなかった後悔の方が後悔するという結論に至った」と語っておられたのも、なんだか、メッセージ性というか、不思議なものを感じました。
「自分が生死の間を彷徨った」という方は、臨死体験みたいな感じの体験をされてから、「死にかけてから、やらなかった後悔は残さないことにした」とおっしゃってました。
あとの2名は「何人もの人の死を見守った経験がある」という方なのですが、
肉体から旅立つ人から教わったことが、「やらなかった後悔」というのは、とてもとても、心残りになるものなんだ、ということだったそうです。
わたし自身も、同じことを、思っています。
わたしは、生死に関わることによって、ということではありませんが、
ずっと直感的にそれを知っていたような感覚の方が、近いかもしれません。
これは、適当に聞き流してほしいのですが、
「やらなかった後悔」というのは、
また、他の機会のとき・・今世じゃなかったら、来世で、また、やるか・やらないか、というところで、選択を迫られる気がしています。
それで、「今回じゃなくて、次回、今世じゃなくて、来世で」というように、引き伸ばせば、引き伸ばすほど、
「それをやれない理由、言い訳」みたいなもの、めんどくささ、抵抗感が、強くなるような気もしています。
これは、どういうことかというと、「ショートケーキのイチゴを最後にとっておく症候群」みたいな感じです。
引き伸ばせば、引き伸ばすほど、ショートケーキのイチゴが、恐ろしいもの、あるいは、罪深いものに、感じられてくるという、七不思議・・笑
わたしの意見、経験からの話になるのですが、
「やった後悔」というのは、長い目で見ると、後悔ではなくなります。
「やった後悔」というのは、確かに、失敗したとか、恥をかいたとか、悪いことをしたかもしれないとか、間違ったことをしたとか、痛い目にあったとか、
いろんなことを思うことがあり、しばらく落ち込むこともありますが、
それを通り過ぎると、
「ああ、あれには、あんな素晴らしい意味があったのか」
「ああ、あれがあったから、こんなにも素晴らしい経験ができるんだ」
ということになる率100%ですし(99%ではなく、100%です)
後悔というのも、祈りによって、奇跡に変えてもらい、奇跡として受け取ることは、誰でも可能、その力は全員がすでに持っています。
しかし「やらなかった後悔」というのは、わたしの場合も、
いつまで経っても、心に残るというか、後ろ髪を引くというか、なんか引っかかって気持ち悪い感じというか、気が済まない感じというか。
それで「心に残るというか、後ろ髪を引くというか、なんか引っかかって気持ち悪い感じというか、気が済まない感じ」について、
わたしは痺れを切らすのが早かったので、もともと行動に移すタイプです。
迷うような場合や、勇気が出ないような場合、恐れがあるような場合、
最長で一年経っていたら、やるようにしています。
なので「やらなかった後悔」が、ない。
それで、行動に移して、例えば失敗するとか、恥をかくとか、そういう感情が出てきてくれた方が、浄化になりますし、浄化というのは奇跡を受け取るということでもあります。
奇跡を受け取るということは、実体験を持って真に学ぶ、真に理解する、叡智に触れる、ということでもあります。
「やらない」を選択して、いつの間にか忘れてしまっているとか、どうでもよくなっているようなこと、というのは、
そもそも、やりたくなかったこと、やる必要がなかったこと、自分の感覚ではなかったこと、なのです。
あなたは、どちらのタイプでしょうか。
どう思いますか?