無意識、無自覚に気づく

例えば「人のせいにしないようにする」というのがあったとしたときに、

「はい、わかった。わたしもそう思うし、そうしたい」と、多くの人は、そう思います。

けれども、ただ単に、それで終わり、という話じゃないのです。

どちらかというと、まずは、最初に、「人のせいにしているということ」を、ただ自覚すること。ただ意識に上げること。

「ただ自覚する」「ただ意識にあげる」というのは、裁かない、問題視しない、分析しない、

「なぜ自分は人のせいにするのだろうか?」「なぜ人は人のせいにしてしまうのか?」などという解明のようなことをしない、

「人のせいにしないようにしなくっちゃ」と自分の力でなんとかしようとしない、セルフコントロールしようとしないということで・・・。

裁かない、問題視しない、分析しない、解明しない、自分の力でなんとかしようとしない、セルフコントロールしようとしない、というのは、なぜかというと、それをする必要がないからです。

したらいけないとかじゃなくて、それをする必要がないし、してもややこしくなるだけ、時間の無駄というだけ、です。だから、悪いというわけではありません。

ときには、「なんの意味のない道草」が、意味を持つこともあるのです。これは、本当に、そういうものです。

 

 

人のせいにするのも、自分のせいにするのも、

裁くのも、問題視するのも、分析するのも、解明しようとするのも、自分の力でなんとかしようとするのも、セルフコントロールに熟達しようとするのも、

すべて、エゴの働きであり、本来の自分自身ではない、ということです。

だから、それをしたからといって、悪いということでもないです。

ただ、エゴの働きのままに従っていたら、自分が、苦しくなる。

このことで混乱をするときは、「自分の目的はなんなのか?」を、自分に問う習慣をつけると、霧が晴れて、道がよく見渡せるようになることがある。

 

 

話を戻すと、「人のせいにしないようにする」というのは、まず、人のせいにしていたことを、ただ自覚できるようになること。

「ただ自覚する」・・・これは、最初から、できないもの。

「人のせいにする自分」を、責めちゃう、ということが多いと思います。

「いや、これだけはどう考えたって、相手のせい、外側のせい、社会のせいでしょうよ」と正当化したくなる、ということもあるかもしれないし、密かな例外を作りたくなるかもしれないし、

「みんなそうなんだ」と開き直りたくなることも、あるかもしれないし、

ただ、なんとなく、モヤモヤしたものがあって、それをみたくない、ということもあるかもしれません。

 

 

しかし「人のせいにしていることについて、ただ、自覚するだけでいい」というところからブレずに、

自分の内側にあるさまざまな感情を、そのままを、安心して、認めて、感じていっているうちに、

ただ認める、ということができるようになります。(これだけでも、だいぶ、浄化されていく、癒されていくもので、内的なことだけでなく外的な体験を受け取る方もいらっしゃいます)

ただ認める、というのは「(本当は、相手のせいじゃないのに)、人のせいに、してたなぁ」みたいな感じです。これは、開き直ってるニュアンスとかじゃないです。

やってみたらわかる、やってみないとわからない、類の話かもしれません。

 

 

「人のせいにする自分」を、責めちゃう、というのは、

「人のせいにする」ということが、自分でもなければ、自分の考えでもない、ということに、薄々気づきはじめているからなのです。

 

 

さて、ここまでできるようになってくると。

今度は「自分のせいにする」「自分が許せない」となってくる、という場合があります。

この時期は、自分の中の「ドロドロしたもの」が、たくさん見えるようになることがあります。

これは、今まで外にあると思っていたものが、実は自分の中にあることがわかるようになったということです。

これは、本人にとっては、とてもつらい時期となります。

「外側を自分の思うようにコントロールしよう、変えよう」ともがく、というのも、とてもつらいものですが、

「全て自分が悪い」「自分が自分のことを許せない」という時期も、とてもとてもつらいものです。

自分(エゴと同一化した自分)で自分(エゴと同一化した自分)のことは、許せませんからね。

 

 

けれども、外側がどうこう、というよりも、

「全て自分が悪い」「自分が自分のことを許せない」という時期、というのは、

投影をしていないので、例えば、まわりの人々だったり、状況だったり、環境だったり、社会だったり、そういう外側というのが、とてもとても優しいものに感じられているはずなのです。

もし今、「全て自分が悪い」「自分が自分のことを許せない」という感じで、

自分のことだけを責めている感じの場合は、

「投影をしていないので、例えば、まわりの人々だったり、状況だったり、環境だったり、社会だったり、そういう外側というのが、とてもとても優しいものに感じられているはず」

ということを思い出した上で、日々を過ごしてみてください。

 

 

きっと「思ったより、はるかに世界は優しい」ということを、感じられるはずです。

 

 

このときに、確かに、世界は、人々は、思ったよりも、はるかに優しい、と感じられたら、

その優しさ、というものが、自分の中にある、ということです。これが鏡の法則で、「この優しい愛が自分の中にある」と認めること、認識するということが自分を愛するということです。

 

 

いや、世界も、厳しいぞ?という場合は・・

自分と相手を同時に責めている、ということだったり、

密かな例外があったり、無自覚に相手を責めている、ということです。

 

 

「人のせいにした上で、相手を許したくないし、許すつもりもない」という場合は・・・・・

「人のせいにしていたい、相手を許したくない、許さない、というこの思いは、エゴの働きである。相手を責めるということは、同時に自分を責めているということであり、相手に罪を見るということは、自分に罪があると宣言しているのと、同じことである。そして、罪がある存在としての自分は、その罪ゆえに、裁きと罰を求め続け、作り出そうとすることになる。罪を、現実に投影して、苦しみを体験することになる。そのようにして、エゴの働きと同一化している間に、時はどんどん過ぎ、肉体は老いていく。しかし、それで、構わない。わたしは、今、ゆるしの光ではなくエゴに忠誠を誓うことによって、人のせいにして、相手を許したくない、許さないと、思いたいのである。それで、構わないのである」

と、このように、堂々と、自分の気持ちをそのままに認めた上で、

自分の中に感じる感情を感じるようにする。

・・・これだけを、ただ、ひたすら、続けることが「完璧な幸せへの最短コース」となります。

これを続けていると、あるとき、自然と、選び直せるようになります。「あーもう、人のせいにするのは、うんざりだ」と思うかもしれません。

というか、このように、思ってることを、そのまま、紙に書いてみるだけでも、深く安心した、スッキリした、気が済んだ、ということもあるかも?しれません。

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