望まないもの(闇)と望むもの(光)

エゴに無意識であるとき、「闇を望むもの」だと思い込んでいたりする・・・というのは、思っている以上によくあること、というかそういうもの、と言えます。

 

 

それで、あるとき、うまくいかせたいのにうまくいかないという経験をしたり、叶えたいのに叶わないという経験をしたり、

何もかもうまくいかないという経験をしたり、ストレスが限界に達したり、耐えられないほどの苦痛を経験したり、

絶望したり、なんだかモヤモヤと違和感を抱えかなら生きる日々が嫌だと思ったりする・・。

 

 

それで「きっと、もっといい方法があるはずだ」と思う。

「この暗闇は、わたしの居場所じゃない。本当のわたしの居場所は、もっと他にあるはずだ。そこに辿り着くための道、方法が、なんかあるはずだ」と。

 

 

それで、その「いい方法」を探し求める。

「いい方法に出会ったと思ったらやっぱり違ったとなって、またいい方法を探し求めて出会ってなんか物足りないと思って、またいい方法を探し求めて出会ってなんか嫌な感じがしてやめて、またいい方法を探し求めて出会って・・」という出会いと別れを繰り返す時期を経験することは、よくあることだし。

「いい方法ただたくさん知っている、あるいはこの理論についてとても詳しく知っているだけで、それを生きていない」ということも、よくあることかもしれない。

 

 

それで、わたしたちは、決まって、どこかの時点で「自分と向き合う」ということに、導かれる。

自分と向き合うこと。

自分の心の中を、正視、直視、すること。

マインドの浄化。

・・・いつか、どこかで、「こういったことが重要である」ということを、受け入れざるを得ない、感じになる。これを否定したとしても、一度これを知った人は、必ずまた戻ってくる。

 

 

それで、心の中を見ていくと「闇」をみることになる。

自分が「闇」を信じていたから、世界にもそれを見ていたんだ、ということに、気づく。

自分が闇を選んでいたことに、気づく。

今まで、自分の方が「闇」にしがみついてきた、「闇」を自分だと思い込んでいた、というようなことに気づく。

 

 

・・・ここで、これは、すごく大事なことなのだけど、

それで、ただ「闇を手放す」ということだけをしていると、あるとき、虚無感、みたいになることがある、ならないこともあるかもしれないけど、なることがある。

それはなぜかというと、ただ、闇だけを、どんどん手放していったところで、そこにあるのは、無だから。

でも、無を、見たかったのだろうか?

無を、体験したかったのだろうか?

きっと、そうじゃないから、なんか不快な感じ、違和感としての「空虚さ」みたいなものを、感じる。

 

 

ここで、自分の心に問いかけてみたい。

わたしが本当に望んでいるのは、なんだろうか?

闇だろうか?恐れ、苦痛、罪悪感、競争、緊張、絶望・・そういったものだろうか?

無だろうか?

光だろうか?安心、喜び、幸せ、平和、自由、希望、寛ぎ・・そういったものだろうか?

 

 

闇を選んでいたことに気づいて、それを望まない、というところまで自分の本音と一致できたら、

「本当に望んでいるもの」を問いかけて、それを望む、それを選択する、と決める、そして受け取る。

ということが、とても大事。

 

 

「エゴを認めたくない、みたくない」という感じから、

「エゴをただ見れるようになる」というふうになったとき、

それが、まるで、自分が自分を問題視して、自分が自分を足りない、欠けている、今のままじゃダメだというために、エゴを見つけ続ける、みたいになって、そこで、一時停止状態になる・・

ということも、よくあるかもしれない。

 

 

だから、

自分が本当に望むものを、自分の心に聞いて、感じて、

望まないものを選ばないのではなく、望むものを選ぶと決断して、

奇跡を受け取る、ということを、

毎日していく。

 

 

たくさんたくさん、奇跡を受け取ることで、

疑い、不平不満、正しくありたいという欲求(自分はダメだという信念)、自分で計画を立てること(恐れからの期待)・・といった、恐れや罪悪感が癒やされていくものです。

 

 

わたしは、あるとき、セッションについて、

今まで、わたしは、共に学ぶ、ということをしたかったんだ、ということがはっきりしたことがあったんです。

明確になったというか。

このことは、以前から、そうだったと思うのですが、よりはっきりくっきりしたときがあったのです。

今思えば、なのですが、以前は、もっと、ふんわりしていた感じです。

それからというもの、

「クライアントさんが(内なる神、大いなる存在の采配による)すでに与えられている奇跡を受け取る」

というのも、よりはっきりくっきりしてきたというか。

 

 

例えば、クライアントさんが、悩みや問題や執着になっている願いや迷いや混乱や抵抗や痛みなどがある、という感じで、お話をしてくださるとき、

「これが、奇跡に変わります」「この奥に愛があるのです」「この奥に光があるのです」

「今から一緒に、想像を絶する喜びを分かち合いましょう」

という感じで、お話してくださっているようにみえるようになったというか。

「そう思おう、そう思い込もうと、している」とかじゃなくて、そう見えるようになったのです。確信があるというか。

しかも例外がない。

前からそうだったといえば、そうだったのですが、

わたしも、無意識、無自覚だったものが、意識化して、明確になった、という感じです。

なので、エゴとか、闇とか、だけを、意識化、自覚していくのではなくて、

エゴとか、闇とか、だけを、意識化、自覚していくことによって、

その奥にある本当の本音、本心、本当の本当に望んでいること・・このわたしの例でいうと「共に学ぶ、ということをしたい」ということも、意識化、自覚していく、ということです。

「共に学ぶ、ということをしたい」ということは、以前から心にはあったけど、今思えば、ここまではっきりくっきりと明確になっていなかったというか。

「なんとなくそう感じる」という微かな感覚の奥にある、

明確さ、明瞭さと繋がることって、とても大切なことなんだ、とも思いました。

クリアな鏡は、クリアに映し出す。

 

 

ちなみに、ここでいう「学ぶ」というのは、

奇跡を受け取りたい、ということでもあるし、

大いなる存在・法則・創造性による叡智を知りたい(体験したい)ということでもあります。

祈りによって、必ず、奇跡を受け取る、ずっと与えられ続けている奇跡、真の癒し、完全なる解放を受け取れる、という体験。

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