誰かがあなたに・・
その「誰か」とは、家族でも、友人でも、同僚でも、恋人でも、道端で出会った知らない人でも、海外から一人でやってきた誰かでも、インターネット上で見かけた知らない人でも、推し活の対象者でも、誰でもいいのですが・・
「お金がなくて、困っています。〇円だけあればなんとかなりそうなんです。どうかお金を貸してくれませんか?」
といったらどうしますか?
「貸してくれませんか?」じゃなくて「くださいませんか?」でもいいです。
とにかく「自分は今お金がなくて、本当に本当に困っている。〇円だけあれば、なんとかなりそうなんです。どうか、お金を貸すなり、くれるなりして、私を助けてください」
といってきたら、どうしますか?
もしかしたら、これを読んでいる人の中には、この状況を経験したことがある、という方もいらっしゃるかもしれません。
貸した側も、貸してほしいといった側も、両方、いらっしゃるかもしれません。
なぜこの質問をするかというと、お金に関連して持っている「不要な信念、価値観、固定観念、決めつけ、思い込み、ジャッジメント」を見つけるためです。
不要な信念、価値観、固定観念、決めつけ、思い込み、ジャッジメント」というのは、そのベースが欠乏の概念であり、
欠乏の概念というのが、さまざまな「自分にとって望まない体験、苦しい体験、苦と楽を行ったり来たりする体験」として投影されているものです。自己呪縛、ブロック、心や身体の疲れ・・そういったものでもあります。
「自分は今お金がなくて、本当に本当に困っている。〇円だけあれば、なんとかなりそうなんです。どうか、お金を貸してください」あるいは「お金をください」と言ってきた人がいたとして・・
「わかりました。貸してあげます」という場合。
それで、例えば、
「お金を貸したらこの人は助かる」「今とても苦しそうで見ていられない。お金を貸すことでこの人が楽になるんだったら、貸してあげたい」という気持ちから、貸します、という場合は、
その根底に「お金に人を救う力、助ける力がある」「人(自分、他者)は弱くて、足りなくて、脆くて、欠けている存在であり、お金には、それを補う力がある」・・などの信念があるということになります。
自分や他者は、なかったり、足りなかったり、今のままではダメだったりするけれども、お金によって救われる。力が補われる・・みたいな感じです。
そして、この信念から、行動する、ということは、その信念を強めていく、持ち続けていく、ということになります。
「いついつまでに、いくらを返すなら、貸してあげますよ」という場合。
それで、例えば、その背景として、
自分の心を正直に見つめた場合「〇〇をするなら許されるけど、〇〇をしないんだったら許されない」という条件付け、交換条件、取引などの思いがあるとするならば、
その人は、その信念の中で生き続けている、ということになりますし、自分には正しいか間違いかを判断する力があるという信念を強めることになります。
自分には正しいか間違いかを判断する力がある、それができる、というのは、その根底には「自分はダメな人間だ」という信念があり、その信念を強めることになります。
・・「え?なぜ?」と思う方は、内観してみてください。
頭で考えて答えが出ないことでも、内観していってると、見えてくるもの、一致してくるものというのがありますし、情報を鵜呑みにするよりも、内観することによって気づくということが、自分自身と一致していくということです。
交換条件や取引というのは、裁き、コントロール、疑い、多大な緊張を伴うものです。
それを「相手との間でしようとしている自分」について心の奥では罪悪感を感じるものです。なぜなら、その思いは、本当の自分じゃないからです。
「貸せません」という場合。
それで、例えば、その理由が、
「自分もそんなにお金をたくさん持ってないから」とか「貸してほしいといってる金額が高すぎる」だったとしたら、
「お金がわたしのことを守って支えて生かしてくれている」「与えたら、自分の分はなくなる、減る」「自分たちは、限界があり、制限がある存在である」「お金が、わたしのことを支配している」「心のことよりも、お金の方が大事」などの信念を強めることになります。
じゃあ、どうすりゃいいのよ!
じゃないのです笑
その行動が、正しいのか、正しくないのか、とかじゃなくて、
大事なのは、心のです。
心というのは、
「それで、例えば・・」「それで、例えば、その背景として・・」「それで、例えば、その理由が・・」の部分にヒントがある、ということです。
なので、例えば、
「この人はいつもお金を貸してほしいといってる。これは良くないことだ。一回、痛い目を見て、学ぶしかないんだ」と思って、お金を貸さない、という場合は、「痛い目を見ることで、学ぶことができる」「お金には、自分や他者を傷つける、痛めつける力がある」という信念を自ら強めることになるので、
「お金を貸してほしい」という人が、人生から消えたとしても、また全く別の状況、別の登場人物を使って「痛い目を見ることで、学ぶことができる」「お金には、自分や他者を傷つける、痛めつける力がある」という信念を投影した出来事(五感を通して感じられる出来事)を体験する、という感じになるのです。
「なんかよくわかんないから、今までと逆をしよう、ええい!」とやっても、「痛い目を見ることで、学ぶことができる」「お金には、自分や他者を傷つける、痛めつける力がある」という信念を正しいと信じ込んだままなら、それを投影する、という感じです。
なので、心の浄化が大事、内観が大事、ということです。
それで、
行動をAにするか、Bにするか、どうするのか、ということではない、
重要なのは心である、
でも、現時点では、心の中をうまく見れない、よくわからない、ということもあるでしょう。
だから、祈る、という感じです。
内なる神に、自分が今思ってること(エゴでもなんでも)を全て正直に打ち明けて、
助けを求める。導きを求める。これを奇跡に変えてくださいと心から切実に本気で求める。ゆだねる。
助けとか、導きというのは、本当の自分を思い出す、自分が持っている全てを思い出すためのものです。
そして、導き、内なるガイダンスに、耳を済ませる、心を傾ける、傾け続ける・・という感じです。