松竹梅レストランのお話

「松竹梅」みたいな感じで、コースのメニューがある「なんか、いい感じのレストラン」に行ったときの、お話。

 

 

そんな感じのレストランに行ったとき「松は高いから、竹にしよう」というのが、わたしの母、という感じで、その母に反抗したかったわたしは「松が一番高いから松にする」ということを、していたことがありました。

もちろん、あるときまで、そんなふうに心の中で「母への反抗期」をしていることなど、全く自覚がありませんでした。

自分の感覚で、「自分が松がいいから松を選んでいる」と、思い込んでいました。

 

けれども、

「松は高いから、竹にする」という母を見て、「イヤだ」という感じを感じて、「わたしはあんなふうにはなりたくない」という感じを感じて、

それで「(お母さんがあんなふうだから、わたしは)松が一番高いから松にする」というのは、

「自分基準(自分軸、内側基準)」ではなく、立派な「母親基準(他人軸、外側基準)」。

 

 

実家も出て、好きな仕事をして、「はたから見れば、自立しているように見えただろうわたし」だったかもしれませんが、心の中には、いつも、母がいたのです。

自分の中に母がいて、母の意見を思い浮かべて、「わたしは、お母さんとは、違うもん!」というのを、

脳内で0.000001秒以内に想定し、反応し、決定をくだし、行動に移していたのです。

これが潜在意識パワー。

※こういうのに自覚がないと「問題、悩み、執着になった願い等々」として現れます。

 

 

「松は高いから、竹にする」という母を見て、「イヤだ」という感じを感じた・・と書きましたが、

あのとき、わたしは、何がイヤだったんでしょうか。

思い出してみると、母は「お母さんは竹にするけど、あなたは好きなものでいいわよ」というタイプでした。

「わたしにも、無理やり竹を選ぶように、圧をかけられてた」という感じもないのです。

どちらかというと「松がいいんだったら、松にしなさい。あなたが一番食べたいものを食べるのが、お母さんは嬉しい」というタイプで、

けれども、母は、「松は高いから竹にする」と、一番食べたいものを食べてる感じじゃありません。

それを見たわたしの脳内には「かあさんが〜夜なべ〜をして〜手袋編んでくれた〜」というあの歌が流れます。

「お母さんは、自分が食べるのも我慢して、自分は朝から晩まで働いて、おむすびを一つ作ってくれて、娘のわたしにだけ、食べさせてくれようとしてる。自分は食べるのも我慢して・・」という、事実無根のイメージが湧いてくるのです。

それで、すごく、切なくなり、胸が痛んでいたのです。

 

 

わたしは、なにが、イヤだったんでしょうか。

わたしが望んでいたのは、なんだったんでしょうか?

 

 

ここで「???」となる場合は、「あなたとわたしは、別々に見えても、実は同じ」という法則を思い出してみます。

物質視点では「母は、松は高いから竹にする」と言っていて、「わたしは松が一番高いから松にする」と言っています。

物質視点で見ると、全く逆のことを言っていますが、抽象度を少しだけ上げると、

「母も、わたしも、料金基準(外側基準)」「母はわたしだった」ということがわかります。

そうして、確かに、「母=わたし」にはなりましたが、このままでは「うれしくも楽しくもない鏡の法則」です。

「うれしくて楽しい、幸せな鏡の法則(奇跡)」じゃないと、意味がありません。

 

 

ここで、わたしは「母の中に住まう神聖性からメッセージを受け取り、癒してもらうことにします」と決断します。

すると「心の喜びに耳を澄ませる」と、聞こえてきます。

「心の喜びを大事にするってこと?」と問うと、かすかに「YES」という感覚がします。

わたしは「でも、自分が喜ぶだけじゃいやだ、みんなと喜びたい。どうすればいいの?」と聞きます。

すると、なにも、声が、返ってきません。

わたしの心には「自分だけが喜ぶんじゃなくて、みんなと喜びたい」という思いだけが残ります。

 

 

そして、その数年後、わたしはまた、なんやかんやあって、「松・竹・梅」の三つのコースがあるレストランに、行くことになります。

今度は、母とじゃなくて、別の人とです。

そのとき「松が一番高いから松にする。だって、お母さんみたいに、松は高いから竹にする、ってしたくないもん!」と、今までの習慣通りに決めようとしている自分に気づきます。

その場に母はいないはずなのに「だって、お母さんみたいに、なりたくないもん!」と叫んでる自分に気づくのです。

さらに「ここで、竹を選んだら、不幸を受け入れることになる、負けたことになる」というような、なんだかよくわからない、声(抵抗)を感じます。

その抵抗をよく見てみると、「ここで、竹を選べば、お前は、夜なべをして手袋を編んでくれた母さんを幸せにすることができないどころか、自分も、朝から晩まで惨めに働くことになる」みたいな、なんか、そんなことを言われている感じがしてくるのです。

今までと違って、自覚がある状態です。

一緒にレストランに行った人は「なににする?あなたに合わせるよ」と聞いてきます。

 

 

結局、「脳内の脅してくる声」という存在もしない声なのに、それを「受け入れたくない」と間に受けたわたしは、松を頼むことにするのですが、食べ終わった後、お腹いっぱいになりすぎて、苦しくなっている自分に気が付きます。

お腹がいっぱいになりすぎて苦しくなっているわたしを見て、一緒に食事に行った人は、とても心配そうにしています。

その顔を見て「自分だけが喜ぶんじゃなくて、みんなと喜びたい」という、あの思いを思い出します。

そして、わたしは、我にかえるのです。

もともと、わたしは、一度に量をたくさん美味しく食べることができる体質ではなく、肉より魚、魚より野菜派だし、アルコール類も「なにを飲んでも同じに感じられるタイプ」なので、お飲み物も水がいい(水でいいじゃなくて水がいい)のです。

そして、メニューを思い出しながら、「梅がよかった」と、自分が本当に食べたかったものが、やっと、わかった・・と、なんだか心が落ち着いたのです。

 

 

さらに、それから数年後。

わたしは、なぜか「不思議な流れ」によって、毎月県外に出張に行く流れを受け取っていました。

そんなある日、あの「声」、それも「優しい方の声」が、「今度の出張には、母と二人で行くように」と言い、わたしはその声に従うことにしました。

わたしがよく泊まるホテルには「松竹梅レストラン」があります。

「優しい方の声」は、「そのホテルにあるレストランに、母と一緒に行くように」と言います。

一瞬「え、でも、そんなことしたら、母が高いだの、もったいないだのと、大騒ぎするんじゃないか」という「考え」が頭によぎります。

しかし「優しい方の考え」は「ホテルのレストランへ、母と一緒に行く」と言います。

わたしは、頭の中の、さまざまな「考え」を脇に退け続けながら、「優しい方の考え」に従い、

母と一緒に、ホテルに泊まり、レストランへ行き、優しい方の考えの指示通りに「今日はわたしにご馳走させてほしい」と言い、母とメニューを見ます。

すると、母は、わたしの予想通り「まぁ!高い!こんなに高いところじゃなくて、よかったのに云々」と言いはじめます。

なんだか、その姿が、まるで、少女みたいで、無邪気で、正直で、とっても、かわいいのです。

それで、わたしは、「松も量が多いし、竹も多分わたし食べれないと思うの。だから梅が良いなと思ってる。わたしは、梅の、魚の方にしてもらおうと思う。お母さんも量的には梅でちょうどいいと思う。お母さんどうする?」と、聞きます。

すると、メニューを眺めながら「うん、お母さんも、梅がいいって思うし、魚がいい」と言います。

「飲み物も、わたしは水にするけど、お母さんどうする?飲みたかったら飲んで」と聞くと、「お母さんは、焼酎が飲みたい。でも、こんな素敵なレストランで焼酎なんか飲んだら、恥ずかしいかしら、日本酒にした方がいいのかしら」と言います。

わたしは、そんな母を見て「可愛い」と思いながら、「そんな恥ずかしいものをメニューに載せるわけないし、焼酎なんか恥ずかしいとか言ったら焼酎に失礼でしょ。飲みたいものを飲むのが一番いいでしょ。お料理にも合うんじゃないの。わかんないけど」というと、母は「そっか、そうだね」と納得したようです。

そして「優しい声」が手配してくれたひとときに、感謝したのでした。

 

おしまい。

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