奇跡、というのは、「普通に」考えたとしても、
あり得ないありがたいこと(喜び、幸せ、感謝な感じのこと)が起こった、ということです。
もっというと「神業(かみわざ)」とか、想定を遥かに超えた、とか、そういう感じ、ということです。
dここで「勝手に、自分とは全く無関係に、そういう出来事が起きた」という解釈で止まってしまってるという方も多いかもしれませんが、そうではありません。
ここまでは「普通に考えたとしても」そうだ、ということだと思います。
この「あり得ない」というのは、ある意味「おそれ」とか「憎しみ」とか「マイナスの決めつけ」とかだったりして、
その「おそれ」とか「憎しみ」とか「マイナスの決めつけ」が取り消された、それも、「自分が努力してゴシゴシして、ピカピカに磨き上げて、取り消された」とかじゃなくて、取り消された、ということで、
さらに、それを、自分や自分たちが、まっさらな心で、感謝で、受け取る、受け入れることができた、ということでもあります。
そして、その「あり得ないと思ってた有難いこと」というのは、自分はもちろん、みんなにとっても、幸せ、喜び、平安で満たしてくれるものだった、ということになります。
もっというと「神業(かみわざ)」とか、想定を遥かに超えた、とか、そういう感じ、ということは、なんらかの、この世界や人間の、想定、統計、工夫、努力、具体的意図を超えてたところからの何か・・ということもできます。
これが、奇跡です。
その「おそれ」とか「憎しみ」とか「(マイナスの)決めつけ」が取り消された、それも、「自分が努力してゴシゴシして、ピカピカに磨き上げて、取り消された」
と書きましたが、自分の中に「おそれ」とか「憎しみ」とか「決めつけ」があることを認識していること、それを自分でなんとかしようとしたり、大事に持っていたりせずに、大いなる存在に差し出すことが、奇跡を受け取っていく上で、私たちがすること、みたいな感じです。
「おそれ」とか「憎しみ」とか「決めつけ」が取り消されるのが奇跡なので、自分が「おそれ」とか「憎しみ」とか「決めつけ」とか「価値判断」とかを疑問視していく、そうじゃないかもしれないと思っていく、手放したいと思っていく、憎しみの代わりに愛を体験したいと思っていくことは、必要です。
なぜなら、無条件の愛である存在は、”大事に握りしめているもの”を無理やり取り上げるようなことは、しないから、です。
だから、もっと重要なのは、「おそれ」とか「憎しみ」とか「決めつけ」とか、あるいは、「罪悪感」とか「無価値感」とかを、自分が握りしめていることに気づくこと、そして、それを自分が大事に握りしめていると気づくこと、です。
これに気づくということは、人や何かのせいに一切できない立場に立つことを自分が選ぶ、ということでもあり、自分の中に選ぶ力、決める力があるということを受け入れることにもなります。
なので、奇跡、ということを前提にするならば「すべて、心の話である」という感じです。
そして、その心の中の状態というのは、言葉や行動などの形に自然と現れていきますし、もっというと、この心が時空に反映されているみたいな感じです。
奇跡、というのは、悪夢から幸せな夢への移行、ということもできます。
いずれにせよ、この世界は夢です。
夢だからこそ「あり得ない有難いこと」を体験していく。
なので奇跡をたくさん受け取り続けていると、「時間・空間・この世界」という「存在しているように見えているもの」がどんどんやわらかくなっていく感じというか・・「時間・空間・この世界」に軸や基準や絶対的信を置かなくなっていきます。
これが、奇跡の全体像みたいな感じです。
そして、自分の中にある
「おそれ」とか「憎しみ」とか「決めつけ」とか「罪悪感」とか「無価値感」とか
そういった「奇跡の材料」になるものを、一番わかりやすく教えてくれていて、一番の近道を教えてくれる人というのが、
「許せない人」「苦手な人」「嫌いな人」(過去でも現在でも)です。
例えば、願いや問題が、恋愛結婚だったり、お金のことだったり、仕事のことだったり、健康や美容のことだったり、する場合、
「許せない人」「苦手な人」「嫌いな人」(過去でも現在でも)は、全く、その、自分の願いとは関係なく見えるでしょう。
それでも、奇跡の鍵を持っているのは、
「許せない人」「苦手な人」「嫌いな人」(過去でも現在でも、我慢できないほどではない、スルーしようと思えばできる人を含める)
です。
これは、もう、ずっと同じことを言っていますが、なぜなら、「そういうもんだから」です。
これは「ringoさんのメソッド」などではなく、「そういうもの」という話です。
そうして、たくさんの奇跡を受け取っていく中で、ガイダンスもはっきりときこえるようになってきます。
そうして、神様がこの世界で見せようとしてくれている「幸せな夢」を見るために、ガイダンスに従っていく、という感じです。
これもひっくるめて、受け入れて、奇跡を体験したい、というのが、奇跡の体験を受け入れる第一歩です。
奇跡というのは心の中のことで、内側は外側に映し出されていますので、
必ず「この世界での、自分がそれとわかる、具体的な愛の奇跡の体験(癒し、喜び、幸せ、感謝)」として体験しますし、
具体的な必要(自分がこれだと信じているピンポイントの必要)に合った形をとる、というのは、非常によくあることなのです。
「この世界のものではないこの世界を超えた何か」が「この世界で個人の人間として具体的な欠乏と必要を感じている、わたしの必要、欲望、願望を、満たしてくれた」・・この繰り返しというのは、
神との信頼関係の回復、本来の自己への目覚め、という目的を持っています。