「おひとり様思考」を脱ぎ捨てる

先日こんなことを、ブログに書いていました。

最近、ちょこちょこきく話なのですが、例えば・・

あるときは「ヨガを習ってみたい」とうっすら声がするんだけど「一人でyoutubeでできる」と跳ね除ける。

あるときは「身体が疲れてるからマッサージとか行ってみたいな」と思うんだけど「半身浴して自分でマッサージすればいい」と跳ね除ける。

あるときは「〇〇(地名)にある大きい本屋さんに行きたい」という感覚が思い浮かぶんだけど「遠いし、交通費かかるし、人多そうだし、疲れるし、風邪引いたら微妙だし、AMAZ○Nで十分」と跳ね除ける。。。

↑こんな感じの話なのです・・!

なんというか、別にyoutubeで一人でヨガしてもいいし(わたしもお気に入りチャンネルあります笑)

半身浴して自分でマッサージするのも結構ですし、

Amazonもいいのです。

これが悪いというわけではないのですが・・(ちょっとこれは、話が広がりそうなので、一旦置いといて)

 

この「ちょっとこれは、話が広がりそうなので、一旦置いといて」について、書いてみたいと思います。

以前から、ブログを書いていると、途中から「最初書こうとしていたテーマと、全然違う方向に行く」ということがあって、どうやら、この「(自分はこっちだろうと薄々想定していた方向とは)全然違う方向に行く」という、ここがとても重要なところのようなのです。

 

 

わからないことがあって、ある人に、「これって、なんだっけ?」と聞く。

聞いた後で「このくらい、自分でインターネットで検索すればよかったのに。自分でなんとかできたのに」という、ちょっと自分を責めるような、「やっちゃった」というような、そんな気持ちが出てくる。

すると、その人は「わからないな〜。なんだろうね。そういえば気になるね」といって、インターネットで調べはじめてくれる。

自分は横で待っていると、インターネットで答えを見つけたその人は「へ〜!こういうことなんだって!」と嬉しそうに教えてくれる。「へ〜!そういうことだったんだ!」と、自分も嬉しくなる。

 

 

また、あるときは、「パソコンの調子がなんかおかしい問題」が発生する。

パソコンに詳しくないわたしは、インターネットで「なんとかする方法」について調べる。

けれども、自分の調べ方がおかしいのか、なんなのか、「なんとかする方法」自体が、全く、出てこない。小一時間くらいは格闘していたと思う。

それで、パソコンに詳しい人に助けを求める。パソコンに詳しい人に、パソコンの前に座ってもらい、わたしは一歩退き、横でじっと見ている。

すると「こうすればいいんだよ〜」と一瞬で解決。この小一時間はなんだったのかと思う。

その人への感謝が溢れ出てきて、それを伝えると、その人は「こんなことで、そんなに喜んでもらえるなんて嬉しい」と、言ってくれる。

 

 

わたしはこれが、祈りやヒーリングと同じに感じる。

「神の愛」とか「奇跡」というと、なんとも大袈裟に感じる、という人も多いと思うのだけど、

「なんとも大袈裟なこと」にも「日常の大したことないこと」なことにも、

「そんなことしたって意味ない」ということにも「無駄」ということにも、

ありとあらゆるところに、神の愛の癒しがある。

 

 

でも、これって、「一人」じゃ、体験できない。

なぜなら、奇跡も癒しも「本当は孤独や一人ということは、不可能なことである」ということに気づいていくということでもあるから。

自分でなんとかできる、一人でできる、というとき、確かに、ありとあらゆる面で「おひとり様用」が用意されることになる。

それは、それで、いい、というときもある。

でも、それだけだと物足りなくなったとき。もっと何かかあるはずだと思いはじめたとき。

一人じゃ限界がある、と認めたとき、自分の中にある限りのなさに、出会いにいくことになる。

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