奇跡というのは、常に与えられ続けています。
だから、厳密にいうと、「奇跡が起きた」ではなくて「奇跡は起き続けている」のです。
このちょっとした認識の違いが、月とスッポン以上の差を生むようです。
しかし「現実が変わらない」とか「奇跡が起きない、奇跡を受け取れない」と感じられる、ということがあります。
それでも、祈ると、大きな奇跡、大きな変化を受け取る・・ということはよくあることです。
特に、二人以上で祈ったりすると、それはもう絶大な感じです。
※二人以上が心を合わせる・・ということがすでに奇跡だからです。
けれども奇跡を体験するにあたって「”これ”を持ち続けていたいと思っているなら、今は奇跡を求めないほうがいいかもしれない」ということがあります。
その”これ”というのは「わたしは傷つけられた」という思い(被害者意識)です。
とても大事なことですが
「わたしは傷つけられた」と思ってはならない
被害者意識を持っていてはならない
ということではないですよ。
大事なのは「わたしは傷つけられたと思っていたい、被害者意識を持ち続けていたい」という場合
「わたしは傷つけられた、被害者である、このことは事実である」ということを、主張し続けたい、疑いたくもない、という場合
・・このような場合は、奇跡は求めないほうがいい、という感じです。
「わたしは傷つけられた」「わたしは被害者で、あの人は加害者である」
「わたしは傷つけられたと思っていたい、被害者意識を持ち続けていたい」
「わたしは傷つけられた、被害者である、このことは事実である」
↑このような思い、考えが浮かんでくるのは、ある意味しょうがないというか、これを否定したり、禁止したり、抑圧したり、飲み込んだりしても意味がないし、このような思い、考えが浮かんでくるという場合は、わたしの場合は「ノートに書き出す」ということをしていましたが、
「わたしは傷つけられた」「わたしは被害者で、あの人は加害者である」
「わたしは傷つけられたと思っていたい、被害者意識を持ち続けていたい」
「わたしは傷つけられた、被害者である、このことは事実である」
このような思い、考えを「自分が自分のために、手放したいと思っている状態」は、奇跡を受け取るにあたって、とても大切なことです。
なぜなら、奇跡とは、愛からのものです。この愛とは人間界の愛ではなく、無条件の愛、神の愛です。
愛というものは、攻撃も裁きも知りません。愛というのは、攻撃や裁きと、全く反対方向というか、決して共存することができないものです。
愛というものは、傷つけられることも、傷つくことも、不可能なのです。
そして、奇跡とは、本来の自分自身を思い出すためのもの、自分自身が愛そのものである、ということを、思い出していく道でもあります。
だから、もし「わたしは傷つけられた。わたしは被害者で、あの人は加害者である」という主張について、取り下げるつもりはまだない、という段階では、奇跡ではなく、自分が自分に寄り添う、ということにフォーカスしたほうが、いいかもしれません。
わたしの場合「わたしは傷つけられた。わたしは被害者で、あの人は加害者である」という思いは、何度も何度も出てきましたし、
最初は「そうとしか見えない」という状態でした。
しかし、ある時点で、「わたしは傷つけられた。わたしは被害者で、あの人は加害者である」と考えることによって、自分が苦しい、ということに気づいたので、
とにかく、苦しくなくなりたい、苦しみから解放されたい、そのためには自分が間違っていていいし、もう何もわかっていない、とにかくなんでもいいから、心が癒されたい、
と、思うようになりました。これは初期の頃で「自分の考え、思っていること、思考」をとにかく書き出す、ということを、していた頃です。
そして、その後も、「わたしは傷つけられた。わたしは被害者で、あの人は加害者である」という考えは出てきましたが(笑)
その頃には「ああ、そっか、そうではなかった」と、何度も思い出していきました。ちょっとずつ、リハビリをしていった感じです。
これを続けることができたのは、わたしが「努力家である」とか、「根性がある」とか、「聖人君子である」とか、そういうことではなくて、
わたしはただ幸せだけを望んでいたからです。
幸せだけを望むので、幸せ以外のものから解放されたいと望んでいたからです。
だから、ある時点で、「決して許すことができないと言いたい人々」一人ひとりの幸せだけを祈る、ということを、しました。
これは、わたしが「優等生」「善人」だからではなくて、
わたしはただ幸せだけを望んでいたからです。
幸せだけを望むので、本気で苦しみから解放されたいと望んでいたからです。
ただ、それだけです。
わたしも、ある時期「わたしは被害者である」というドラマを作り上げていたことがありました。
だからこそ、その痛みというか、傷というか、そういうものには、本当に、丁寧に、優しく、寄り添うことが大事である、ということも思います。
そして、丁寧に丁寧に、寄り添って寄り添って、慈しんで、少し、外に出かけてみたくなった頃。
誰かと繋がって、喜びたいと思うようになった頃。
自分自身の光の輝きを放ちたい、その反映を体験したいと思うようになった頃。
あなたが、奇跡を歓迎するようになります。
奇跡も、神様も、愛も、ただ、ずっと、そこで、待っていてくれただけです。
今日もこんなメールをいただきました。
Ringoさんに教えていただいたことを実践していると本当に奇跡を受け取ります。こうやって奇跡を受け取っていると同時に、R
ingoさんに感謝が溢れます。 > 外側に苦しめられることはありえない。優しい奇跡の体験を受け取
りたい。さらにそう感じました。 > 最近は晴れている日に虹を見たり、神秘的な体験も受け取っていて
嬉しいです。グループレッスンの時も散歩の途中、 虹色のトカゲを見て、綺麗だな〜とキラキラした気持ちになってい たことを思い出しました。ありがとうございます。
受け取ってくださって本当に嬉しいです。わたしもいつも感謝で溢れています。ありがとうございます。
こちらのクライアントさんは、継続コースを今受けてくださっているのですが、その前はグループレッスンを受けてくださっていました。
「傷」や「痛みや「苦痛」や「攻撃」というワードが登場するような、経験を、たくさん乗り越えてきた方です。
そして、グループレッスンのとき「もう、苦しみから解放されたい」とおっしゃっていたことが、とても心に響きました。
「傷」「痛み」「攻撃」「苦しみ」「争い」・・そういった経験をしてきた方が、本気で解放を求めたとき、
過去のすべての経験が光のために捧げられます。
その「傷の経験」「格闘」「迷路」「谷底」に、神の御業が現れます。
わたしたちは、一歩退き、その、神が現れることを体験します。
そして「思ったよりもはるかに優しく、思ったよりもはるかに幸せなギフト」を、日々、いろんな人々、出来事を通して、受け取っていくのです。
ありがとうございます。