気づくだけでいいですが。
この「気づき」というところにも、エゴが入り込んでくるものです。
わたしにも、こういうような経験があるからこうやって書いているのですが。
例えば
「気づいたけど、全然楽にならない、深刻視が抜けない」とか、
「気づいたけど、落ち込む」とか、
「気づいたけど、問題視してしまう、なんとかしようとしてしまう」とか、
「気づいたけど、で?ってなる」とか、
これはすべて「エゴの気づき」です。
真の気づきは、
気づくだけで、解放、って感じになります。
深刻視、問題視、ぐるぐる思考、重荷、重責感、負担感、自分でなんとかしなければならないという責任感、
すべて、落ちます。
気づくだけで、すべてラブ、みんな愛してる、ずっと許せなかった人とかも含めて感謝・・!くらいの感じになります。
しかし、長い目で見たとき。
この「気づき」は一度受け取っただけでも確かに解放や奇跡を受け取りますが、何度も何度も気づきに戻り続けていくことがとても大事です。
「気づきの状態に留まりつづける」というところに、向かっているのです。
一度気づいたからといって、あとは内観しなくてもいい、浄化はもう終了とか、そういうことではまったくありません。
確かに、エゴと内観し続けてると「内観や、自分と向き合うことは、しんどいことだ」みたいな感じになって、
浄化も、祈りも、しんどい。鏡の法則も、キライ。みたいになる、ということがあり得ますが(笑)
そうこうしながらでも、内観したり、祈ったりしていく中で、たくさんの奇跡の体験が受け取れるようになっていきます。
すると、浄化は、すごく、幸せなことになってきます。
本当の内観って、とても癒しのひととき、安心感が深まるひとときだし、
祈りも、すごく癒しのひととき、安心感が深まるひとときだし、
「あなたはわたし(鏡の法則)」を例外なく適用していくことは、歓喜、みたいな感じだということを、感じられるようになります。
そう、浄化(恐れの想念を見る)というはのすごく、ありがたいことなのですよ。
エゴは、恐れの想念について「重要でないものとして、無視しなさい」とか、
「恐れの想念を認めたら、現実化するので、それを見ないように、認めないように、無視しておきなさい」とか言います。
しかし、実際には、恐れの想念は見ないことによって、それに「命」を吹き込むことになります。身近なところとかでいうと、嫌な予感が当たったとか、まさにこの延長線上にあるって感じです。
エゴは、とにかく、「幸せな導き」とは、逆です。笑
そうではなくって、恐れが無であることを、見破る必要があるのです。
それで、確かに、「気づくだけ」でいいのですが、
なかなか「気づき」までに時間がかかっているとか、
抵抗が苦しいとか、
そう感じられるとき。
おそらく、例外を設けず、すべての人々を鏡(あなたはわたし)で見ていけば、そんなに時間はかからないと思うし、
抵抗のときについても、抵抗を、よーくみる、ということをすれば、そんなに時間はかからないと思うのですが、
場合によっては、時間がかかるとか、とても苦しく感じる、ということもあるかもしれませんし、
「悪夢と幸せな夢が交互にやってくる悪夢」から「完璧に幸せな夢」への移行期間って、
「綱引き状態」がキツイ、次から次に「綱引き状態」な感じになる、ということも、よくあることのようです。
あまりに時間がかかりすぎるとか、しんどい感じがあるとか、
こういうときは、「価値判断や思い込みや決めつけや信念を手放す」と楽になります。
「手放すのがこわい」ってときほど、手放すといいと思います(笑)
そして、またここで、「手放しますっていっても、手放せてる感がない」などのご質問をいただくことがありますが、
・「心にすべて力がある」「自分が見たいように見ているだけである」「外側は内側の反映」ということを思い出す
・ありとあらゆる人を、例外作らず、「鏡で見る(あなたはわたしでみる)」
・内観
これを続けていれば、
「手放しますっていっても、手放せてる感がない」ということは、なくなります。(これについては、また別の機会に丁寧にお話してみたいです)
続けられるのは、根性があるからとか、努力ができるいい子だからとかじゃなくて、
本当に簡単に奇跡の体験、幸せな体験を受け取るから、すごく幸せで嬉しいことだから、
結果的に、続けたくなるって感じです。
だから、内観でも、祈りでも、なんでも、それが幸せに感じられないとき、安心感を得られないときは、
何か間違っているとか、エゴの抵抗とか、そういうことです。
内観も、祈りも、これは、あまりにも、幸せに、軽やかに、できるものだからです。