「わたしが創造主」と「わたしは神の子」の話

最近「わたしが創造主論」について、ご質問いただいたり、話題に出てきたりすることがつづいたので、これについて、ブログを書いてみようと思います。

 

 

「わたしが創造主、わたしが神」という話を聞いて、楽になる?場合と、違和感を覚える場合と、あると思います。

わたしの場合は、自分が創造主だったとして、なぜ、「このような世界(戦争、虐待、暴力、いじめ、災害、心身の病、別れ、数々の艱難辛苦などがある世界)」を作ったのか?

幻想だったにしても、いくらなんでも、「完璧で愛そのものである創造主の夢」とは言えないのではないか?わたしにとっての「創造主」とか「神」とかは、完全無欠で、完璧に美しく、麗しいものだぞ?

自分が創造主だったとして、苦しむ人々がいたり、自分がこんなに苦しんできたりしたのか?

「苦を作ることで、楽の良さを体験したい」にしては、自己中すぎないか?わたしは罪悪感を感じる。

どこか遠い国で、戦争や空腹や痛みに苦しんでいる人がいたとして、その人たちに比べたら自分は屋根のある家にぬくぬく住んでて幸せだなんて考えが(自分の考えのようにして)浮かんだ日にゃ、わたしは罪悪感で寝込んでしまう。

「痛い目に遭うことによって、学ぶ」にしては、悪趣味すぎないか?なんかマゾヒストみたいで気持ち悪い。わたしの美学には反する。そんな自己卑下したくなるような自分が創造主で、真の自己とか、絶望すぎる。

こんな感じのわたしが、創造主なのか?創造主にしては、へっぽこすぎないか?

 

 

・・・愛というものは、完全なる一体性というものは、退屈だから、暇だったから、ちょっとした思いつきで、体験というものをしてみたくて、ゲームで遊んでみたくて、ドキドキワクワクな夢を見てみたくて、「このような世界」「苦しみと解放という二極の世界、分離がありえる宇宙、物理宇宙」という世界を作ってみた・・・

という理論があることは情報的に知っているけれども、

 

 

ちょっと待てよ、愛というものは、退屈なのか?暇なのか?

 

 

愛とは、退屈なのか?

・・いや、わたしの感覚としては、愛とは喜びのはずであり幸福のはずであり、これ以上がないほどの完璧性であり、完全無欠性であり、退屈ではないはず。

「退屈は、もともと仏教用語で、仏道修行の苦しさや難しさに屈して、仏道を求める心が退き、精進努力する心を失うことを意味していた」というようなことを聞いたことがあるけれども・・

エゴに屈して、誘惑に負けて、仏や神といった以外のものを求める心、というのが、退屈なのではないのか?違うのか?

 

 

まぁ、それはさておき。

もし、「退屈だったから、暇だったから、体験をしてみたくて、ゲームで遊んでみたくて、ドキドキワクワクな夢を見てみたくて、この世界を作ったわたし(意識、スピリット)」この”わたし”が、創造主だったとして、

「苦しみがありえる(それがたとえ、幻想で勘違いだったとしても)」というものを、作ることがありえる、創造主のことを自分は信用できるだろうか?

その創造主が自分だとしたら、わたしは自分のことを信じられないぞ?即座にへっぽこ認定を下して、自己否定、自己卑下をすると思う。

・・と、わたしは、思いました。

 

 

そして、エゴというのは、「自分こそが神である、自分こそが創造主である」ということを、言いたいものです。

 

 

自分は、創造主なのか?

例えそれが、幻想で、勘違いだったとしても、「ちょっと退屈凌ぎに」みたいな理由で、完全無欠である創造主が、苦しみがありえるという何かを作るだろうか?作れるだろうか?

完全無欠の歓喜、幸福、というのは、「必要」とか「ほしい」とか「あったらいいな」とか、そういうものさえ、思いつけないほど、満たされているのではなかろうか?

明らかに、「何かがほしい、何かをしたい」と、物理的世界に何かを作りたいとか、求める、というのは、

そりゃ確かに「楽しみたいから」とか「ワクワクしたいから」とか、そういうのもあるだろうけれども、

 

 

でも、「何かがほしい、何かをしたい」って、

正直にみてみるならば「このままでは不満足です」という気持ちが、0.00001ミリだったとしても、あるのではなかろうか?

 

 

・・このように、わたしは、感じていたので、「自分が創造主論」は、心に響かなかったのです。

自己否定、自己卑下が強すぎたおかげで「自分が創造主論」は、わたしの救いには、なってくれなかったのです。

 

 

それで、まぁよくわからないなりに、迷走していても、確かに、思い=形、みたいなものは、たくさん体験しましたが、

歯が立たなかったのが、「恋愛結婚パートナーシップ」「親子関係」でした。

一時的にうまくいったとしても、安心していられるものに、ならなかったのです。

 

 

こんなわたしの人生を「普通に考えたら」「分析してみるとするならば」、

「機能不全家庭で」とか「心の病、なんらかの障害」とか、そういう「診断名」におさまって、

色々諦めて、身の程を知って、執着を捨て去り、身の丈にあった感じに、なるべきである、ということも、言えたのかもしれません。

 

 

忘れられないのは、機能不全家庭や依存の分野で大御所の先生が「機能不全家庭で育った人は、普通の人と違うから」と言っていたことです。

それで、わたしは「普通とは違う、みんなとは違う。だから、みんなが幸せになるはずの教えさえも、理解できない、救いようのない人間なのかもしれない」と、絶望していたこともありました。

あ、もちろん、この大御所先生に傷つけられたと言いたくて、こういうことを書いてるわけではなく、当時は、自分のことを「無力な人間、どうしようもない被害者、救いの教えさえ心に響かない貧しい心の人間」と思い込んでいたので、

どんな話でも、誰の話でも、自分が不安になるための話に聞こえていた、ということです。

 

 

けれども、わたしは、(今思えば)幸運なこと?に、

諦めるのも嫌だったし、

身の程を知るとか、身の丈にあったとか、そういうのも嫌だったし、

執着は捨てられなかったし、強欲だったし(こんな自分を恥ずかしいと思ってたけど、どうしていいかわからなかったし、自分で自分をコントロールするとかができなかった)

理想が高い理想主義者だったし(それで理想と現実の差に葛藤して苦しんでたけど)

完璧主義者だった(何もできない完璧主義者だけど)

 

 

こういう「エゴが強い、恥ずかしい、ダメなわたし」が強過ぎたおかげなのか、どうしようもなさすぎたのかで、

「ああ、わたしは創造主ではなく、神ではなく、神の子だったんだ」

という神の腕の中におさまって、絶やっと大なる安心に身を委ねることができたのです。

 

 

いまだに、というか、現時点において、

わたしにとって、「神」というものも「本来の自己」というものも、完璧に思い出したとは言えない、

まだまだ、思い出し続けたい、留まり続けたい、と望み続けるものです。

完全に思い出して、神と完全一致して、そこに留まり続けることを心が本当の望んだなら、

わたしはもうこの世界にいないと思います。

 

 

まだまだ、なんやらかんやら、エゴの想念が、出てくるもので、

けれども、そのすべてを、「幸せな夢を見るための道具、みんなで幸せな夢を見るための道具として、使ってほしい」と祈って捧げることによって、必ず、奇跡を体験できる。

奇跡、つまり、あり得ない驚きな喜びことを、たくさん受け取るようになります。

そして、そうやって、たくさんの奇跡を体験することで、恐れの夢が幸せな夢に入れ替わっていく。

「神の愛なんて、退屈、神から離れたい」と思ってしまった自分の罪悪感を、何度も何度も、神の愛によって、癒してもらってる。

この幸せな道を、歩んでいるところ、という感じです。

「思うまま」というのは「神の思うまま。神の子を愛し、慈しみ、喜びとする完璧で完全無欠な神の思うままを受け取る」ということです。

 

 

そうして「神様」と、神様にずっと語りかけていると、

その神様というのも「あなたはわたし(鏡の法則)」で、神とひとつの神の子、ということを、感じられたりする。

 

 

そんなこんなで、わたしは「わたしが創造主」ではなく「わたしは神の子、わたしたちは神とひとつの一なる神の子」という認識です。

それで「魂意識」「無の境地」というのも、わたしにとっては「神か神以外かを選べる段階」みたいな感じです。

だから、神だけを望み続けていきたい、と思っています。

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