なんだか、そもそもろん、みたいな質問ですが。素敵な質問です。
なぜ祈るのか?
宣言やアファメーションや意図設定だけとかじゃなくて、
「前向きに考えよう」とか「捉え方を変えてみよう」とかじゃなくて、
なぜ祈るのか?そもそも
この問いに対する答えはあまりにも明白です。
それは・・
無条件の愛を受け取るということ
無条件に愛されるということ
すでに無条件に愛されているということ
このことを思い出していくため、そして、確信していくため、確信を深めていくため
わたしのことを、こんなにも隅々まで
愛のまなざしで見つめられ、見守られ、慈しまれ、愛でられ、
気にかけてもらい「わたしが本当に欲していたもの」は与え続けてもらっているということを、受け取るということ
完全に信頼してもらえているということ
わたしの方は「何をしたとしても、何もしなかったとしても」
ずっとわたしへの完璧な愛と完璧な信頼を持って、待ち続けてくれていた
ということを、思い出すということ
わたしはこんなにも神に恋をして、でも、
神こそが、わたしに恋をしていた、ということに気づくこと、そして、受け入れるということ
神に感謝することで、神が感謝してくれていたということを、思い出すこと
受け取るということを思い出し、受け取るということが同時に与えるということだということを学ぶこと
このすべてを、本当の意味で、心の深い深い深いところから
確信していくということ
この、神様とわたしの関係性。
相対性。
「神と分離していない」ということを情報だけ獲得して、
わかったつもりになることは、重要ではない。
「神と分離していない」ということを聞いて、
ああ、わたしは、まだまだ分離を信じている、エゴの声を信じている、恐れている
ああ、わたしは、また、分離を信じた、エゴを信じた、恐れていた
と、素直に、安心して、正直になる。
そして、祈ることによって、必ず与えられている、神様からの「愛のお返事」を受け取る。
分離も恐れも罪悪感も過去も未来もエゴも、実在しておらず、
この真理だけがすべてである、ということを、学ぶために、
この、神とわたしの関係性は、
この世界の「誰かとわたしの関係性」「何かとわたしの関係性」のすべてに、反映されていく。
奇跡の体験(この世界での具体的な体験、誰かや何かと喜びや幸せを分かち合う体験)によって、その恐れや、憎しみや、疑いは、どんどん、洗い流されていく。
こんなにも愛されている、ということを、
この世界のいろんなことを使って、神様は、優しく優しく、思い出させていってくれる。