2〜3年前?もっと前かな?に、「察して言動するをやめるレッスン」をするようにと導かれたことがあります。
「きっと相手はこうしてほしいのだろう」とか、
「きっと相手はこういってほしいのだろう」とか、
そういった自分の心の中の動きを察知したら「動かない、言わない、何もしない」を徹底する、という感じです。
最初は「そんなことしたら、ひどいんじゃないか」とか「ただでさえ、自分は空気読めないのではないかと疑心暗鬼になることがあるのに、こんなレッスンなんてしたら、血も涙もないようなとんでもない人間になるんじゃないか」とか、色々思っていたように思います。
とにかく、このレッスンが現れたとき、恐ろしくて、仕方がなかった、です。
それで、何度も「察して動きたくなる、察して何か言いたくなる」という誘惑はあって、ついその誘惑に乗ると、おもしろいほどに「最悪の想定」になっていたのです。
そんなときもありながら「察して言動するをやめるレッスン」をしばらく続けていました。
「察して言動するをやめるレッスン」を続ける、というのは、自分の中の「察して言動したい衝動」を、何度も気づき続けるということでもありました。
あれから数年経ちました。
気づかないうちに「察して言動するをやめるレッスン」から、他のレッスンへと移り変わっていて、すっかり忘れていたのですが、ふと「ああ、あんなことがあったな」と思い出したので、ブログを書いてみることにしました。
今振り返ると、というか、今思うのは、というか。
まず、
「察する」と「リーディング」
「察する」と「以心伝心」
というのは、全く別物だということ。
「察する」
「リーディング」
「以心伝心」
この3つは、全く別物だということ。
「豆腐か?消しゴムか?石鹸か?」以上に、別物だ、ということ。
「察する」をしていると、している側は、おそらく、「心や体の疲れ、消耗」があると思います。
「察してもらう側」は、モンスター化、赤ちゃん化、退化、していく可能性大、と思いました。
「察してちゃん」という言葉があるように、「察してちゃんは構ってちゃん枠」みたいな、そんなところがありますが、誰かを「察しているとき」、それは、相手の中にあるハートではなく、相手の中のインナーチャイルドに繋がろうとしているような感じ・・というのが、レッスンを続けていくと見えてきます。
つまり、相手の強さではなく、相手の弱さを引き出す、演じさせる、みたいな。
それで。
わたしの場合「リーディング」については「察して言動するをやめるレッスン」を、しばらく続けていくと、明瞭な感じになってきた瞬間みたいなのがあって。
明瞭な感じになってきた頃、すかさず、「ああ、これ、自分でハンドル握ったらやばいやつだわ」と直感して、祈りによって捧げるようになりました。ですので、リーディングについては、「わたしは何もしません」という状態を、保ち続けられるように、日々、祈っています。「このわたしという人物」がするのではなく、聖なる存在が為すがままに従います、という感じです。
というか、わたしが色々苦しかった頃、この三つがごちゃ混ぜになっていたのではないか、と、これを書きながら、ふと思いました。
特に10代の頃はとてもきつかったですが、この3つが全開になっていたのではないか・・?まぁ、いっか。
それで。
「察する」って、「長所」みたいな捉えられ方をすることが多いと思うのですが、長所と短所は表裏一体です。
というのも、これは、「察して言動するをやめるレッスン」をひたすら続けていて、見えてきたことなのですが、「察して」のエネルギーが強い方ほど、普段、察している方なのです。
いい悪いという話ではなく、ただ、そうであるということで、自分が疲れてきちゃったとか、何かがうまくいかなくなっちゃったのであれば、「振り子」を超越するときなのだと思います。
「察することができる」ということに「プライド」がある方もいらっしゃると思いますし、この「察するに関連する思考」というものを「手放しましょう」と言われたら、おそれや抵抗が出てくるかもしれません。
おそれや抵抗が大きければ大きいほど、それを手放したあとに現れるもの、受け取る奇跡というものが、莫大、という感じがあります。
察するというのは、とにかく本人が疲れますし、「なんだこれは・・」というような悲惨なドラマを作り上げることもありますが、
以心伝心は、もう、癒しそのもの、いつも感動だったり、驚きな喜びを、与え続けてくれます、決して枯れることのない泉のように、与え続けてくれて、溢れ出続けてくれます。
リーディングは、なんというか、これもまた一長一短的なところがあると言えばありますが、神聖性に心を開いて、マインドの浄化・内観を続けていると、こういう能力的なものが開いてくることは、まったく珍しいことでもなんでもありません。
逆に、内観・マインドの浄化をおこたった状態でこういう感じの能力があると、かなりややこしいことを作り上げちゃう、ということはよくあるようです。
そういえば、10代の頃、落ち着きを取り戻しはじめた時期が、書き出しをはじめて、一人暮らしして祈りはじめたタイミングでした。
この頃の「書き出し」は、10代の頃主治医からすすめられたもので、やり方としては「とにかくなんでもいいので、思ってることを文字化する。ただそれだけ。それ以上何もしない」というもので、
あるとき一人暮らしをはじめて「この上ない暇」みたいになった頃、このことを思い出して、ほとんど一日中書き出しをしていたのでした。
それで、その一人暮らしをしていた場所の近くに「キリスト教系の学校」があって、そこの生徒さんたちとすれ違うたびに、マリア様が出てきていたので、その流れで、お祈りしてみようかな、という感じで、お祈りしていた、とか、そんな感じだったような。
このときのお祈りも、その主治医関係で学んだことの中にあったお祈りがベースとなったものだったり、あるいは、対話的なものだったり、していました。
いろんな「繋がり方」があるけど、本当の繋がりって、
(1)「察する」
(2)「以心伝心」
(3)「リーディング」
この3つでいうと、(2)「以心伝心」なんだな、と思いました。
(1)も(3)も、「共有できない」「理解してもらえない」「わかってもらえない」という可能性を含むもので、寂しさや、孤独感が、残っちゃう。